光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第7話 雨宿りだけ。雨宿りだけ。雨宿りだけ

飲み会がお開きになる頃、店の外は強い雨になっていた。

「え、雨?」
「うわ、結構降ってる」
「傘持ってないんだけど」

入口に集まったスタッフたちの声が、急に現実へ戻っていく。

さっきまで藤崎先生だ、聞き上手だ、彼女はいるのかと浮ついていた空気が、雨音に押し流されていく。

美月はバッグの中を確認して、小さく息を吐いた。

折りたたみ傘はない。

朝は晴れていた。
天気予報でも、こんな降り方になるとは言っていなかったはずだ。

「綾瀬さん、駅まで一緒に行く?」

後輩が声をかけてくる。

「いい。私は少し待ってから行く」
「大丈夫ですか?」
「うん」

大丈夫ではない。

けれど、誰かと一緒に駅まで走るのも、今は少し気が重かった。

飲み会の間じゅう、藤崎理久は相変わらず完璧だった。

話しかけられれば、きちんと聞く。
軽い冗談も返す。
誰かのグラスが空けば自然に気づく。

でも、誰か一人にだけ距離を詰めることはない。

あれだけ感じよくしておきながら、誰にも本当のところは渡さない。

器用な人。

そう思ったあとで、通路で聞いた声が頭に戻ってきた。

――疲れるよ。普通に。

あの一言だけは、宴席で見せていた王子の顔とは違っていた。

美月は、雨の向こうを見る。

考えない。
考えたら、たぶん負ける。

そう思っていた時だった。

「綾瀬さん」

背後から声がした。

振り向くと、理久が立っていた。

さっきまで周囲に向けていた紳士の顔ではない。
少しだけ、こちらを見ている顔。

「駅?」
「……そうです」

反射的に、仕事用の声が出た。

理久は少し笑った。

「ここ、病院じゃないって言ったよね」
「飲み会帰りなので、余計に仕事用でいたいです」
「なるほど」

理久は、外の雨を見た。

「傘は?」
「ありません」
「俺もない」
「なら、聞く意味あります?」
「一応」

美月は小さくため息をついた。

「雨が弱くなるまで待ちます」
「弱くなるかな」
「願望です」
「正直でいいね」
「褒められても困ります」

そんなやり取りをしている間に、外科の医師たちや10Aのスタッフは、タクシーに乗ったり、誰かの傘に入ったり、駅まで駆け出したりして、少しずつ散っていった。

理久は、なぜかまだ隣にいた。

美月は少しだけ警戒する。

「藤崎先生は帰らないんですか」
「帰るよ」
「では」
「方向、駅?」
「そうです」
「俺も途中まで同じ」
「……そうですか」

非常に嫌な予感がする。

けれど、ずっと店先で立っているわけにもいかない。
雨は少しも弱まらなかった。

美月は覚悟を決めた。

「走ります」
「本気?」
「駅まで数分なので」
「その靴で?」

美月は自分の足元を見る。

少しヒールのある靴。
確かに、走りやすくはない。

「走れます」
「二回言う?」
「まだ一回です」

理久は少し笑った。

「じゃあ、行こうか」

二人で店を出た。

瞬間、雨が全身を叩いた。

予想以上だった。

駅まで数分どころか、十秒で濡れる。

美月はバッグを抱え、足早に歩く。
走ると言ったが、足元が悪くて走れない。

雨は容赦なく髪に落ち、顔を濡らし、ブラウスに染み込んでいく。

最悪。

本当に最悪。

その時、理久が急に足を止めた。

美月もつられて止まる。

「何ですか」

彼は、何も言わずに自分のジャケットを脱いだ。

そして、美月の肩にかける。

「……これ着て」

美月は反射的に拒んだ。

「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」

声が、いつもより低かった。

美月は動けなくなる。

理久は、美月を見ないようにしている。
視線を少し逸らしたまま、言った。

「その格好で電車に乗るのは、やめた方がいい」

一瞬、意味が分からなかった。

次の瞬間、気づく。

ブラウスが濡れて、肌に張りついている。
下着が透けている。

最悪。

美月は、腕で胸元を隠すようにした。



理久は見ない。

見ないようにしている。

そこが逆に、妙に紳士的で腹立たしい。

「うち、ここから近い」

彼は静かに言った。

「近所だし、雨宿りだけしていけば」

美月は即座に警戒した。

「それ、普通に危ない発言ですよ」

理久は小さく笑う。

「分かってる」

分かっているなら言わないでほしい。

彼は続けた。

「だから、嫌ならタクシーを呼ぶ。でも、そのまま乗るのもきついと思う」

美月は反論しようとして、できなかった。

雨は強い。
服は透けている。
髪も顔も濡れている。

この状態で駅にも戻れない。

理久は畳みかけない。

ただ、雨の中で少し距離を取ったまま言った。

「玄関先でもいい。タオルを貸す。服も乾かせる。何もしない」

美月は彼を睨んだ。

「“何もしない”って言う人ほど信用できません」

理久は、少しだけいつもの顔に戻った。

「じゃあ、“何かしたら病院に通報していい”でどう?」
「病院に?」
「10Aに。主任さん、怖そうだし」

美月は思わず黙った。

主任の顔が浮かんでしまった。

笑いそうになるのを、ぎりぎり堪える。

理久は、それを見て少し安心したような顔をした。

「本当に雨宿りだけ。綾瀬さんが嫌なら、俺はロビーにいる」

美月は雨の音を聞きながら、しばらく黙った。

危ない。

普通に危ない。

でも、彼は見なかった。

からかわなかった。

いつものように面白がることもできたはずなのに、しなかった。

それが少しだけ、判断を鈍らせた。

「……本当に、雨宿りだけです」
「うん」
「三回言います?」
「今日は俺が言う」

理久は、美月の肩にかかったジャケットを軽く整えた。

触れそうで、触れない距離。

「雨宿りだけ。雨宿りだけ。雨宿りだけ」

ずるい。

そう返されると、少しだけ力が抜ける。

美月は小さく頷いた。

「分かりました」
「こっち」

彼は、雨の中を歩き出した。
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