光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第8話 雨宿りだけ、のはずだった

駅近の普通のマンションだと思っていた。

せいぜい、病院に近い単身者向けの高めのマンション。
そういうものを想像していた。

けれど、理久が足を止めたのは、ガラス張りの高層タワーマンションの前だった。

エントランスは、ホテルのように静かだった。

明るすぎない照明。
整えられたロビー。
コンシェルジュらしき人影。

美月は思わず足を止めた。

「……近所って、ここ?」

理久は、何でもない顔でカードキーを出した。

「うん。近所」
「いや、近所の意味が違う」
「距離の話でしょ」
「そういう問題じゃないです」
「濡れてるから、早く入って」

それは正論だった。

悔しいけれど。

エントランスに入ると、外の雨音が少し遠くなった。

美月は、肩にかかったジャケットをぎゅっと握る。

この場に自分がいること自体が、妙に場違いに感じる。

濡れた髪。
濡れた服。
他人のジャケット。

そして目の前にいる、外科の藤崎先生。

何これ。

何この展開。

近所って言ったよね?
普通の近所じゃないじゃん。

タワマンって何。

医者家系、怖い。

いや、藤崎理久、怖い。

エレベーターに乗る。

階数表示がどんどん上がる。

美月は濡れた髪を押さえながら、無言で数字を見ていた。

理久が横で、少しだけ困ったように笑う。

「そんな顔しなくても」
「しますよ」
「引いた?」
「かなり」
「正直でいいね」
「褒められても困ります」
「でも、濡れたままよりはマシ」

美月は反論できなかった。

最上階近くでエレベーターが止まる。

扉が開いた。

静かな廊下。

そして、広い玄関。

中へ入ると、窓の向こうに雨で霞んだ夜景が広がっていた。

美月は呆然とした。

「……近所って、ここ?」

二回目だった。

理久が少し笑う。

「二回言うと、だいたい動揺してるよね」

美月は濡れた前髪のまま、きっぱり言った。

「では、三回言います。ここ、何ですか」

理久がくすっと笑う。

「うち」

なんつー男。

どこまで設定を盛っているの、この人。

けれど、彼は玄関に入るとすぐに距離を取った。

美月をリビングの奥まで誘導することもしない。
ただタオルを取り出し、視線を外す。

「浴室、そこ。先に温まって。服は乾燥機を使える。俺の服でよければ、置いておく」

美月は警戒したまま彼を見る。

理久は、両手を軽く上げた。

「入らない。近づかない。ドアの外に置く。距離は取る」
「そこは覚えてるんですね」
「綾瀬さんに怒られたことは、だいたい覚えてる」

こういうところ。

こういうところがずるい。

美月は、浴室の前で立ち止まった。

濡れているのは自分だけではない。
理久も髪から水が滴っているし、薄手のニットも肩や胸元に張りついている。

「でも、家主より先に入るのは……」

そう言いかけると、理久がタオルで髪を拭きながら、少し笑った。

「じゃあ、俺が先に入る? 綾瀬さん、その間ずっと濡れたままだけど」

一瞬、美月は黙った。

正論。

でも、腹立つ。

「……先に入ります」
「うん。それがいいと思う」

余裕の笑み。

腹立つ。

でも、ちゃんと引く。

そこがまた腹立たしい。

* * *

浴室は、ホテルみたいに広かった。

大きな鏡。
清潔な洗面台。
広いバスルーム。
窓の向こうには、雨に霞む夜景。

美月はしばらく立ち尽くした。

何この家。

何このお風呂。

近所って言ったよね?
雨宿りって言ったよね?

けれど、温かいシャワーを浴びると、冷えた身体が少しずつほどけていった。

緊張も、雨の冷たさも、飲み会の疲れも、少しずつ流れていく。

脱衣所には、理久が置いていった服があった。

白いTシャツ。
柔らかいグレーのスウェット。
大きめのカーディガン。

下着類はさすがにない。

でも、濡れた服を乾かすためのランドリーバッグや、髪をまとめるための未使用のゴムまで置いてある。

用意が良すぎる。

こういうところが、また腹立つ。

美月は借りた服に着替えた。

当然、大きい。

袖も裾も余る。

鏡の中の自分を見て、何とも言えない気持ちになった。

危険区域。

かなりの危険区域。

なのに、今だけは本当に助かった。

リビングへ出ると、窓の向こうに夜景が広がっていた。

ローテーブルには、温かいコーヒーとミネラルウォーター。

隣に、小さなメモがある。

『アルコール入ってるから、水も飲んで』

字がきれい。

それもまた腹立つ。

美月はコーヒーを両手で持った。

少し遅れて、理久が濡れた髪のまま戻ってきた。

まだシャワー前で、着替えを片手に持っている。

「寒くない?」
「……大丈夫です」
「三回言わなくていいよ。顔色で分かる」

美月はコーヒーを持ったまま睨んだ。

「藤崎先生こそ、早く入った方がいいです」

理久は少し笑った。

「はいはい。じゃあ、入ってくる。眠かったら寝てていいよ」
「寝ません」
「二回言う?」
「言いません」

彼はくすっと笑って、浴室へ向かった。

部屋は静かになった。

雨の音だけが、窓の外にある。

ソファは沈み込むように柔らかい。

温かいコーヒー。
乾いた服。
お酒の残り。
飲み会の疲れ。
突然の雨。

そして、知らないはずなのに妙に安心してしまう空間。

寝ない。

絶対に寝ない。

こんなところで寝たら、完全に負け。

そう思っていた。

なのに、まぶたが重くなる。

コーヒーを飲み終える頃には、身体の力が抜けていた。

雨の音が遠くなる。

視界が少しずつぼやける。

理久が戻ってきた時、美月はソファの端で眠っていた。

カップは空に近い。
髪はまだ少し湿っている。

大きめのカーディガンに包まって、さっきまで警戒していた人とは思えないほど無防備だった。

理久は少しだけ足を止めた。

いつもの余裕の笑みはなかった。

「……寝てるし」

小さく呟く。



近くに置いてあったブランケットを手に取り、起こさないように、そっと肩にかけた。

その時、頬に触れそうになった。

けれど、触れなかった。

指先を止める。

代わりに、少し離れた一人掛けのチェアに腰を下ろした。

窓の外では、雨がまだ降っている。
夜景はぼんやり霞んでいる。

理久は眠っている美月を見て、小さく息を吐いた。

「雨宿りだけ、だからね」

眠っている美月には聞こえない。

それでも、彼はその距離を選んだ。

雨宿りだけ。
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