死神の旦那様は、花嫁菓子しか食べられない



 奥の院は、敷地の最北端にある。

 皿と木べらを手にした小春は、屋敷裏の森へ足を踏み入れる。晴れているはずなのに、この辺りだけ空気が湿気を帯びて重かった。湿った冷気がまとわりつき、息苦しさすら覚える。

「そういえば、ここに来るのは初めてね」
 奥の院は鷹宮が掃除を担当していた場所だった。

 鳥のさえずりが、ふっと途絶えた。
 深緑の葉が、どこか淀んで見える。
(茶色に変色している……?)
 小春はふと、立ち止まり森を見回す。清々しさは微塵もない。気力を吸い取られてしまいそうだった。

(長くいてはいけない気がする)
 理由のわからない直感が頭をよぎる。その時、すぐそばに榊の群生を見つけた。

(早く採取して戻ろう)
 足早に駆け寄り、榊の葉へ手を伸ばす。しかし、露は見当たらなかった。それどころか、葉の先がじんわりと黒ずんでいる。

「……え?」
 見ている間にも、侵食するように黒が広がっていく。ぞっとして、小春は反射的に手を離した。
(そういえば、ここの榊たちは全然お喋りをしてくれない……)
「ねえ、榊さん。どうしたの? 何かおかしいわ」
 すると、か細い声が途切れ途切れに届いた。

『だめ……逃げて……』
『早く、朔夜様、を……』
 その声はどこか怯えている。

「何かあったの?」
 小春が顔を上げた、その時だった。
 森のさらに奥側から湿った冷気が流れてくる。視線の先には、注連縄で囲われた場所があった。その奥には小さな社が見える。岩山を背負うように建てられた古い社だ。その傍には澄んだ湧水場もあった。その水音だけが耳に響いてくる。

 一見すれば神聖な場所に見える。だが、小春の本能は拒絶した。
(入ったら、二度と戻れない──)
 途端に、全身へ鳥肌が走る。
 内臓を掴まれたような激しい吐き気に襲われ、小春は口元を押さえた。
「……うっ……!」

(逃げなければ……!)
 急いで身体を翻した瞬間、膝から力が抜けた。地面へ倒れ込みそうになり、慌てて地面に手をつく。

(どうして……身体が、動かないの……)
 異様な眠気に襲われ、視界が急速に狭まっていく。

「だ、誰か……っ」
 かすれた声は、静かな森に吸い込まれて消えた。意識が途切れかけた、その時だった。

「小春様⁉」

 たまたま掃除へ来ていた鷹宮が、小春の姿を見つけた。普段は冷静な彼が明らかに顔色を変えて駆け寄ってくる。

「ここは禁足地でございます!」
 鷹宮は小春の肩を支え、その場から強引に引き離した。
「……鷹宮さん、あの森……何かあるの?」
 力の入らない足を引きずりながら小春は問いかける。
 鷹宮の表情が険しくなった。

「この森の奥には、地脈を通じて穢れが封じられております!」
「……穢れ」
「湧水で結界を張り、外へ漏れぬように封じておりますが……」
 そこで鷹宮は、はっと森を振り返った。空気が淀んでいる。

「まさか……」

 小春は屋敷近くまで運ばれたところで、ぐったりと座り込んだ。
「力が入らなくて……ものすごく、眠いの……」
 小春の手元を見た鷹宮の呼吸が止まる。爪の一部が、不吉な黒色に変色していた。
 鷹宮は森の奥を見つめた。瘴気が結界の外へ滲み出している。

「いかん、瘴気が漏れている! 志乃さん、朔夜様を──!!」

 箒を片手に志乃が飛んでくる。小春の様子を見るなり、顔を強張らせて母屋へ駆け出した。



「朔夜様! 大変でございます! 小春様が瘴気に!」

 母屋に飛び込んできた志乃の裏返る声に緊迫が宿る。
 その言葉が最後まで響く前に、朔夜は読んでいた本を床へ放り出し、立ち上がっていた。
 そのまま、履物に目を向けず、裸足のまま廊下を蹴って駆け出した。



「小春!!」

 奥の院に近づくにつれ、濃い瘴気の気配が肌を刺す。
 現場に着くなり、朔夜の目にどす黒い靄が飛び込んできた。

「朔夜様! 小春様はお守りしておきます。浄化を!」
 小春を抱える鷹宮が叫んだ。小春が朔夜に顔を向け、視線が合う。
(……間に合った!)
 
 朔夜の焦燥が、一瞬で静かな「怒り」へと変わる。目を細め、瘴気の規模を測った。
(小規模だ)
 彼が瘴気へ一歩踏み込むと、拒むように黒い靄が鎌首をもたげたように見える。
 朔夜は静かに息を整える。その瞬間、瘴気が引き寄せられるように揺れ、木々がざわめく。
 朔夜の手刀が、榊の葉をなぞる軌跡を描いた。

神祓御影流(かみはらいみかげりゅう)──『(はらえ)』!」

 閃光が一閃。
 目も眩むような光の刃が走り、渦巻く瘴気の足元から巻き付いた。
 光に飲み込まれた黒い靄は、激しい音を立てて掻き消され、霧散していく。
 ずしりと重かった大気が、ふっと軽くなった。

『朔夜様、ありがとう!』
『怖かったよ!』
 黒く変色していた葉が、いつの間にか艶のある緑に戻っていた。

(これが……朔夜様の異能……)
 息を飲む小春の視界に、大股でこちらへ駆け寄ってくる朔夜の姿が映る。

「小春!」

 鷹宮は静かに身を引き、小春を朔夜へ預ける。

 小春は優しく抱き起こされた。
 朔夜のその瞳には、動揺がはっきり映り、肩がかすかに震えていた。
「大丈夫か……。あと一歩遅れていたら、俺は……」
「……でも、朔夜様のお顔を見たら安心しました」
 朔夜はせきを切ったように、何度も小春の背を撫でた。

 その姿を見ながら、小春は朔夜をじっと見つめた。
 朔夜の肩が一度だけ上下するが、彼は平然とした顔を崩さない。
 薄茶の瞳は儚く、白磁のような肌に濁りはない。

(死神に……なってはいない)
 小春の胸の奥から、ほっと息が漏れた。
「よかった……黒い血管は出てきませんし、お目も……。飴の効果ですね」
 力なく笑う小春を、朔夜は目を細めて見つめる。

「小規模の瘴気なら、そう負担はない。安心しろ」
「……はい。朔夜様に何もなくてよかったです」

 小春の瞼が、とろりと落ちかける。
 朔夜の顔がかすかに歪んだ。彼は小春の膝裏へ腕を差し入れ、そのまま抱き上げた。

「ひゃっ」
 不意打ちに、小春は頬を染め小さく声を漏らした。
「すぐに身体を休ませる。今は俺にまかせろ」
 朔夜の胸元にすっぽりと収まった小春を大事そうに抱え直し、迷いのない足取りで母屋へと歩き出した。


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