死神の旦那様は、花嫁菓子しか食べられない


   
 庭先の気配に気づき、朔夜は目を覚ました。無意識に視線を向けたのは自分の袖だった。だが今日は、小春の遠慮がちに握る小さな手がない。その先、小春の布団はすでにもぬけの殻だった。


『小春が戻って安心した!』
『朔夜様がいないと、僕たちまで瘴気に飲まれちゃうよ』

 朝から草花の精霊たちはお喋りだった。庭先では小春は木べらを使い、榊の葉から朝露を集めている。

「大丈夫よ。私が朔夜様のお身体を整えますから」

『心強いな!』
『二人は、ずっと一緒にいないとね!』

 葉を揺らしながら、精霊たちは嬉しそうに囁く。

「そうね。ずっと……」

 小春は小さく微笑む。けれど、胸の奥では別の想いが静かに形を成していた。

(おそばにいる。それだけで、本当に満足できるの?)
 朔夜の伸ばしかけて離れていった手を思い出すと、胸がちくりと痛んだ。

「小春! もう身体は平気なのか」
 不意に背後から声が落ちる。
 小春は弾かれるように振り返った。
 寝着のまま庭へ出てきた朔夜が、まっすぐこちらへ歩いてくる。
 その姿を見ただけで胸がいっぱいになる。
 けれど同時に、切なさも込み上げた。

「はい。飴を舐めたら、この通り爪も元に戻りました。心配をおかけしました」
 小春は手の甲を朔夜に掲げて見せた。
 朔夜が小春の前で立ち止まる。

「無理はするな」
 低く言って、小春を部屋へ戻そうと背へ手を伸ばしかける。だが、触れる寸前でその動きは止まる。伸ばした腕は静かに引かれ、袖の中へと隠された。

 小春はその動きを目で追った。
 でも、もう心は傷つかない。
 その拒絶に秘められた、痛いほどの慈しみを知ってしまったから。

「私には、私にできることがあります」
 集めた朝露を掲げる。
「お菓子を作っている時が一番心が落ち着くんです。だから、何もせず休んでいろと言われる方が、きっと無理なんですよ」
 小春は小さく笑う。

「それに……昨日、朔夜様の浄化を目の当たりにして思ったんです。早くラムネを完成させねばと」
 朔夜の表情が、すっと引き締まる。
 小春は懐から小さな青梅を取り出した。
「さっき精霊たちが教えてくれんです。この庭の奥に梅の木があるって」
 ころりと掌に乗せる。
「落ちてしまっていたのですが、とてもいい香りで。つい拾ってしまいました」
「ほう。もうそんな季節か」
 朔夜は青梅へ視線を落とす。その実へ伸ばしかけた指は、再び迷うように袖の中へ戻った。
 その一瞬に小春の胸がずきりと痛む。

「朔夜様。どうぞお手に取ってください。私に触れても大丈夫ですから」

 つい、言葉が零れていた。
 その一言に、朔夜は驚いたように目を見開く。

「……知っているのか?」

 小春は静かに頷いた。
「志乃さんから伺いました」
 視線は落としても、差し出した自分の手は絶対に引かなかった。

 朔夜が重たいげに口を開く。
「申し訳ない。お前に……小春に触れれば壊してしまう」

 一瞬だけ、小春は目を閉じる。けれど、逃げなかった。まっすぐに朔夜を見上げる。
「私は、壊れたりしません」
 はっきりと言い切った。

 だが朔夜は苦しげに首を振る。
「父上も気づかなかったのだ。私との距離が近くなるうち、少しずつ浸食されていたことに。気づいた時には、もう遅かった」

 そう言われた小春の瞳に強い光が宿る。

「なら──触れても壊れないくらい、もっとすごい菓子を作ります!」

 朔夜が息を飲んだ。

「完璧に浄化できる霊草菓子を、必ず完成させてみせます。そうしたら……触れても平気ですよね?」

 その笑顔はどこか泣いているようにも見えた。
 朔夜の胸の奥がぎゅっと締め付けられるように疼く。目の奥に熱が込み上げ、小春を直視できずに目を伏せた。

「……なぜそこまでする」
 呆れたような声音。だが、その奥には満たされた響きが滲んでいる。
 小春は少し照れたように笑う。

「私の大切なお人ですもの。だから、私がお守りします」

 その言葉がまっすぐに朔夜の胸を貫いた。
 恐怖も、不安も、孤独も、一瞬だけ全部ほどけてしまいそうになる。

(ああ、今すぐ、壊れるほど──)

 隠した腕が衝動のまま小春を強く抱き寄せたがっていた。




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