死神の旦那様は、花嫁菓子しか食べられない
第六章:あの日、救えなかった手


 
 一年前と同じ、生暖かい南風だった。
「また、この場所か」
 湿気を帯びて顔にまとわりつく銀髪を、九条は煩わしそうに指でかき上げる。 
 磨かれた革靴が砂利を踏む。
 後ろに控える部下が、控えめに声をかける。

「九条管理官、現場はこちらです」
「知ってるよ。前にも来たことがあるからさ」

 その顔には、いつもの飄々とした笑みはなかった。九条は黒革の手袋をはめながら、この先に漂う黒い靄を見捉えていた。
「小規模だ。固定で完全に抑え込める。行くぞ」
 表情を引き締め、再び革靴が高い音を立てる。

 一年前、巨大な穢れに襲われ処理を受けた小さな村。トタン張りの簡素な家が立ち並ぶ、どこにでもある集落。
 数年前、村の先に紡績工場が建った。地脈を塞がれた穢れは行き場を失い、この村へ溜まり始めた。
 漏れ出した瘴気は、村人の気力を静かに奪っていた。
 今日もまた、同じ現象が起こっている。

「人がいないな。もう瘴気の影響を受けちゃってる。これでも早めに駆けつけたのに」
 九条は独り言のように呟く。
「村ごと固定しますか?」
「それはだめだ。結界で瘴気を集めて、あの雑木林へ追い込む。そこで一気に固定するんだ。御神影が来る前に済ませるからね」
「はっ!」
 部下たちが、素早く定位置につく。

 九条は仁王立ちになり、怜悧な瞳で睨むように黒い靄を見据えた。そして、すっと両手を掲げた。

「──律式(りっしき)結界」

 両手の間に、静電気のような細い閃光が走る。
 九条はそれを押さえ込むように溜め込み、一気に手のひらを前へ突き出した。瞬間、透明な薄い膜が広がり、瘴気に張り付くように包み込む。九条は足を踏み込み、目の前に渦巻く瘴気を一か所へ寄せるように手を動かした。すると、黒い靄が意志を持つように引き寄せられ、雑木林へと移動していく。
 その間、九条は一度も瞬きをしなかった。

「準備はいいね。四方から一気に固定をするよ」
 九条は奥歯を噛み締める。すると、瘴気を包む結界の膜に細い電流が幾重にも走り始めた。逃げ場を失った瘴気が激しく渦巻く。九条は手を突き出したまま、静かに目を閉じた。

「結界固定──凍結!」

 四方から白い霧が噴き出す。
 次の瞬間、渦巻いていた瘴気の動きがぴたりと止まった。そして急激に凝縮され、小さな塊となって地面へ落ちる。まるで黒い氷のようだった。
 その瞬間、周囲の空気が一気に軽くなる。
「空気が軽くなりました! 九条管理官、固定は成功です!」
 部下のその声で、九条はようやく突き出していた腕を下げた。

「九条!」

 後方から怒気を含んだ声が響く。
 九条が振り返ると、険しい形相の朔夜が足早に近づいてきていた。

「あーあ、早く帰りたかったのに」
 九条はうんざりしたように空を仰ぐ。

「なぜ固定した! 小規模だからこそ浄化だ!」
 朔夜の怒りがこもった視線を九条は冷たい目で受け止める。

「国は固定処理の方針に変えたんだ。今回は御神影は呼ばれていないはずだ。なぜ来た?」
 九条は腕を組み、小さく息を吐く。
 朔夜はさらに苛立ちを募らせた。
「九条も、固定だけではいつか破綻するとわかっているだろう!」
「それは心外だな。僕はこれでも国内最強の結界師で、固定師だよ。みくびらないでくれる?」
 横目でギロリと朔夜を睨みつけた。

「固定はその場しのぎで意味はない!」
「だから増やさないように、少しずつ処理しているんじゃないか。それに」
 九条の顔から一切の表情が消えた。
「この場所、御神影にとってはトラウマだろう。僕だって、気遣ったつもりなんだけどな」
 わざと軽く言うように肩をすくめる。
 朔夜は一瞬、息を飲んだ。視線を集落に移し、また九条へと戻す。

「……それなら、お前も同じだろう」

 九条の瞳がかすかに揺れる。
 しかし次の瞬間には、ふいと顔を逸らし、笑みを消す。

「ああ。あの日──救えなかった子供の手がね、今でも忘れられないよ」

 九条は手袋越しの掌へ視線を落とした。

「固定したのは、僕だから」




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