死神の旦那様は、花嫁菓子しか食べられない
馬車を降りた九条は、乱暴に外套を脱いで部下へ放った。
その目は御神影家の上空に渦巻く黒い靄から離れない。
精神まで圧し潰されそうな、冷たく重い空気がまとわりつく。
時折、びりっと電流が流れるような刺激が全身を刺す。
耳の奥を刺すような高音──キーンと鳴り響く不快な耳鳴りのせいで、周囲の音が消えていくようだった。
(匂いすらしない。あの時も、そうだった)
故郷が瘴気で壊滅しそうだったあの日、誰もがその存在に気がつかなかった。
拳を握り締める。指先が白くなる。
「二手に分かれて回り込む。御神影を確認したら、すぐに援護の固定を始めろ!」
九条は手短に指示を飛ばすと、すぐに駆け出した。
(今、行く!)
「御神影!」
屋敷裏に回り込み奥の院に辿り着いた九条は、朔夜を見つける前に森の変貌に釘付けになる。部下が恐れ慄く。
「も、森がありません! 瘴気に飲み込まれています!」
森はどす黒い靄に覆われ、草花は力を失うように項垂れていた。
(穢れの見立てが甘かった。……ここまでとは)
九条の額にジワリと脂汗が滲む。
「どこにいるんだ!」
黒い闇の中で、ただ一人、白く浮かび上がる人影を見つけた。
それは朔夜だった。
「御神影!」
九条は駆け寄ろうとするが、朔夜の周囲を瘴気が取り囲んでいた。
「固定開始! 御神影の周囲を固めろ!」
「はっ」
部下たちが一斉に固定に入る。
「御神影、こっちへ来い! 飲み込まれる!」
九条の叫び声は届いているはずだが、朔夜は振り返りもしない。
九条はもう一度叫ぶ。
やはり、朔夜は無反応だった。
九条は眉を寄せ、朔夜をじっと見据える。
「……っ!」
目に飛び込んできたのは、黒く染まり始めた瞳と肌に浮かぶ黒い血管だった。
人の輪郭が崩れかけている。
そこに立っているのは朔夜のはずなのに、もう人には見えなかった。
(死神に……なりかけている)
「しっかりしろ、御神影! 死神になるなっ!!」
瘴気が勢いを増し、朔夜を飲み込もうとしていた。
九条は反射的に構える。
「──律式固定!」
朔夜を覆う瘴気の動きを止める。しかし、穢れからは次々と瘴気が流れ出る。
(おかしい。この量ならすでに飲み込まれていてもおかしくないはず)
九条は足を踏ん張りながら、瘴気を押し込む。
ふと朔夜の口元が目に入った。九条は息を飲む。
襲いかかる瘴気が朔夜の口元で小さな渦となり、吸い込まれていた。
(あいつ、死神になりかけてもなお、浄化をしている!)
朔夜はすでに瘴気によって感覚が鈍っている。それなのに、使命を果たすその執念だけで、瘴気を吸い込み続けていたのだ。
九条は言葉を失った。
(最後まで人間のまま、帝都を守ろうとしている!!)
なぜそこまで命を投げ出せるのか、九条は無性に腹が立った。
「御神影! 小春のラムネ菓子を食べろっ!」
空気を裂くような九条の声でも、やはり朔夜の反応はない。
九条は見せたことのないほどの歪んだ表情で叫ぶ。
「もうやめろっ! 死神になってしまうぞっ!」
朔夜を守るために固定をしている九条もこれ以上動けない。
小春を探すがいるはずもない。
「小春はどこだ……!」
さらに力を込め、九条の顔に青筋が立つ。
(止まれ……! 一瞬でいい!)
目の前の穢れが、あざ笑うかのように黒い牙を剥き出し、圧倒的な力で二人を飲み込もうと嗤っていた。