偽り咲く花神さまの後宮

 琴が社を守ったというあの火災は、花神の支配に反意を抱く勢力の仕業であるという説がある。何らかの理由で反政府組織と関わりを持った琴が、後宮内に入り込むためにこの男と組んで犯行に及んだ、と考えるなら確かに辻褄が合うだろう。
 けれど、どうも納得できなかった。その行為は、澄珠の中にある信心深い巫女として育てられた琴の起こしそうな行動とは、真逆だったからである。

「……彼が反政府組織と関わりを持っていた、というのは分かりました。ですが、証拠もないままに決め付けるのは危険です。このことは他の誰にも言わず、秘密裏に調査を進めましょう。私も彼とは旧知の仲ですので、一度近付いてみます」

 その冷静な答えが意外だったのか、栗萌は少し驚いたように目を見開いた。

「……まさか、琴様を庇っていらっしゃるのですか?」

 心中を言い当てられてはっとする。
 実際、琴にこんな疑いをかければ、琴がどうなるか分からないというのも気がかりだった。他の犯罪ならいざ知らず、社に火を放ったなど、死罪になりかねない。
 栗萌は澄珠の消極的な態度に戸惑っている様子だった。

「ど、どうしてですか。澄珠様は、琴様に花神様を奪われてしまったはずなのに……て、てっきり、恨んでいるもの、かと」

「……確かに、羨ましい気持ちはありますが、琴はたった一人の妹なので、無実の罪で死んでほしいとまでは思えません。もちろん、本当に放火したのであれば正しく裁かれるべきではありますが、まだ疑いの段階で下手に噂になるようなことをするのも……あまり、よくないかと」

 琴が今あんな風になってしまったのは、自分の責任でもある、と澄珠は思っている。
 だから情を捨てきれない。琴は、今でこそ澄珠を手酷くいじめてくるが、昔はあのような子供ではなかった。目立ちたがりで、一番になりたがるのは昔からだったが、彼女は花神の花嫁という地位よりも、巫女としての誇りを重視していたように思う。

 それに、澄珠が後宮へ行くとなった時、最も泣いていたのは琴だ。
 拗ねて口を利いてくれなくなったし、結局澄珠が後宮へ向かう日の最後まで、別れの言葉を交わすこともなかった。
 澄珠にべったりだった幼い琴にとって、姉である澄珠が突然家からいなくなってしまうというのは、恨みにすら変貌するほどの悲しみだっただろう。

「そうですか……分かりました。でしたら、確固たる証拠を掴むまで、琴様に関する妙な噂が回らないよう、わたしも黙っておきます」

 栗萌は、気遣うように頷いた。
 そこで澄珠はふと、部屋の隅に置かれた文机に目を奪われる。そこには筆が置きっぱなしになっており、その下に、書きかけの原稿のようなものが広げられていた。

「……あちらは一体?」
「えっ、あっ、いやっ、あのっ」

 栗萌はみるみる頬を染め、慌てて立ち上がったかと思うと、原稿用紙を両手で覆い隠した。

「……見ましたか?」

 俯き加減に、恥ずかしそうな目でこちらを窺う。

「いえ、中身までは見えておりません。そこまで目がよいわけでもありませんので……」
「よかったぁぁあ」

 栗萌が、心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。彼女は原稿を手早く束ねると、引き出しにしまい込み、何事もなかったかのように澄珠の前へ戻ってきた。

「……引かないでくださいね?」

 おずおずと栗萌が切り出す。その頬はうっすら紅潮し、指先は膝の上でそわそわと動いている。

「は、はい」

 思わず姿勢を正して返事をすると、栗萌は声を潜めて続けた。

「わたし、自作の恋愛小説を書いていて……」

 その告白に、澄珠は感心する。

「これだけ沢山の本を読んでいらっしゃるだけでなく、ご自身でも筆を取っておられるのですね」
「あっ、いやでも、そんなうまくなくてっ! 全然、名だたる作家様たちみたいな文章は書けてなくて……っ」
「けれど、文字を書いて物語を作り上げるということ自体がすごいことですよ。自信を持ってください」

 先ほど栗萌からもらった励ましを、今度は自分の言葉で返す。栗萌は視線を落としながらも、少し恥ずかしそうに己の夢を口にした。

「……いつか作家になりたいんです。後宮内で起こった出来事を書き記して、千年先にも残るような物語小説を書きたくて」

 以前聞いた話では、栗萌は花神の花嫁になることにさほど熱心ではないように思えた。歴史上では稀な例だが、千夜に頼めば後宮を自主的に出る道もあるはずだ。それでも彼女がここに留まる理由――それが別にあるのではないかと澄珠は感じていた。

「……ひょっとして栗萌様は、そのために後宮にいるのですか?」

 栗萌は澄珠の問いに小さく頷き、視線を本棚へ移す。

「はい。わたしがここにいるのは、素晴らしい物語を書くためです」

 明確な夢を持つ栗萌が、いじめられて俯いてばかりの澄珠の目には、きらきらと輝いて見えた。


 屋敷を出ると、陽の光が容赦なく降り注いできた。
 澄珠は栗萌のように壮大な夢を抱えて努力しているわけでも、琴のように誰に対してもはっきりと物を言える度胸があるわけでもない。
 他の花嫁候補たちと比べれば、自分は見劣りする、と澄珠は思った。同時に、千夜が何の取り柄もない自分を選ばなくても当然だと感じ、きゅっと胸が痛んだ。

 ――あの場所に逃げたい。

 胸の奥に湧き上がったその衝動に突き動かされ、澄珠は劣等感に押し潰されそうな心を抱えたまま、足早でその場を後にした。裾が風に煽られ、小さくはためく。
 向かう先は、花庵だ。


 花庵の前に立った澄珠は、息を潜めて雲隠れの術を解いた。
 これまでいつも来ていた場所だというのに、新しくなった花庵は本当に立派で、勝手に踏み込んでいいものかと一瞬躊躇う。緊張しながら戸に手をかけ、軋む音を忍ばせてゆっくりと開いた。
 中はしんと静まり返っている。折角建て直したのに、以前と同じく誰も使っていないらしい。
 足音を殺して廊下を進むと、やがて縁側にたどり着く。

 そこでは、花影が眠っていた。


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