偽り咲く花神さまの後宮
できるだけ音を立てずに近付き、その寝顔をじっと見つめる。
実のところ澄珠は、初対面の時以外では、花影の顔をあまり見ないようにしていた。千夜に似ているせいで、見つめ続けるのが恥ずかしく、目が合ってもすぐに目をそらすことが多かった。
(本当に、よく似ている)
髪の色こそまるで異なり、千夜よりは少し華奢で痩せているようにも思うが、眉の形も輪郭も、目元の線も、唇の形までもが千夜と瓜二つだ。双子なのではないかと疑うほどである。けれど、神が双子ならその事実はとっくに土地の民に知られているはず。結局は、ただの他人の空似に過ぎないのだろう。
そう考えながらも澄珠は、その顔から目を離せなかった。まじまじと見続けていると、長い睫毛が持ち上がり、花影が目を開いた。
「そんなに見つめられたら、顔に穴が開いてしまうよ」
からかうような声音で言われ、澄珠の頬が熱を帯びる。
「も、申し訳ございません」
「別に君になら、どれだけ見つめられても怒らないけれど」
冗談か本音か分からない発言に、澄珠の鼓動はなお速まった。
ふと、花影の笑みが途切れる。花影がわずかに眉を寄せ、澄珠の顔へと手を伸ばした。その指先が頬に触れ、思わず肩が跳ねる。
「……怪我をしてる?」
花影の視線は、昨夜付いた澄珠の傷に向けられている。
「誰にやられたの」
その声色が、急に低くなる。背筋をひやりとした感覚が走り、澄珠は小さく身を縮めた。
「君に傷を付けたのは、誰?」
澄珠は初めて、花影を恐ろしいと感じた。
「香水瓶が落ちてきて、少しだけ擦ってしまって……私の不注意で、香水もだめにしてしまいました。もう手当てしてもらったので、大丈夫です」
ごにょごにょと搾り出すように告げると、花影の瞳から次第に険しさが消え、いつもの柔らかな表情へと戻っていった。
「なあんだ。そんなこと。また嫌なことがあったのかと思ったよ」
「え……」
心の内を見透かされたようで、澄珠は驚く。
「言っていただろう。ここへは、辛い時に来るって」
澄珠が言い淀んでいると、花影はゆるやかに上体を起こし、ぐい、と澄珠の腕を引いた。そして、耳元で囁く。
「大丈夫だよ。俺には遠慮しなくていい。何かあったら頼ってくれ。俺が君のことを、何を犠牲にしても守ってあげる」
澄珠は近すぎる距離に動揺して、思わず花影の手を振り解いた。あまりに近くに来られると、思考が乱れてしまう。
彼はこの後宮に仕える神官。花嫁候補には誰にでも、分け隔てなく丁寧に接する立場の人だ。だからこそ、こんな言葉も特別な意味などない。そう自分に言い聞かせ、熱を帯びた頬を指先で押さえる。
「……あ、あの、以前からお聞きしたかったのですが」
言葉を探すように一拍置き、澄珠は視線を彼へ向けた。
「花影様は神官ですよね? いつもここで何をなさっているのですか?」
神の後宮に務める神官の役割は、多岐にわたる。
神を祀る儀式の執行や、政務の手伝い、香霞の地の民への知らせ、後宮の防護、後宮における重要人物の護衛、外部からの来客対応などがあり、決して暇ではないはずだ。
それなのに、花影は縁側で昼寝をしていた。
澄珠の疑問に、花影は一瞬だけきょとんとした後、口元をゆるめた。そして、「ああ、そうか。後宮にいるのだから、そう解釈するよね」と納得したように呟く。
それからあっけらかんと言った。
「勤めを抜け出してここにいるんだよ、俺は」
「えっ……」
予想外の答えに、澄珠は言葉を失う。
「俺は他の神官たちみたいに、真面目ではないからね。折を見て、こっそり抜け出してここで隠れているんだ」
「だ、だめじゃないですか! 戻ってください」
慌てて促す澄珠に、花影はふっと笑みを浮かべた。
「昔はこうじゃなかったんだけどね。今はどうも、体が弱ってしまっていて」
彼はそう付け加えると、帯に挟んでいた煙管入れをゆるりと取り出す。
「俺はこうして休まないと、自分を保っていられないんだ」
花影の受け答えに、澄珠はやはり、ご病気なのだろうかと思った。食事も満足に取れていなかったし、療養中なのかもしれない。
「申し訳ありません。ご事情がおありだったのですね……」
それなのに戻れなどと、無神経なことを言ってしまったように感じて、澄珠は目を伏せる。
その横で、花影は煙草葉を軽く丸めるようにして火皿に収め、マッチで火を与える。ゆっくりと口に咥え、軽く息を吸い込む。薄い煙が一本、頬の傍を通り過ぎ、澄珠の前にも優しく広がった。
煙管を日常的に嗜む人など、これまで澄珠の周りにはいなかった。澄珠は悪いものに惹かれるように、思わずその所作に見惚れてしまう。
気持ちを押し殺すように、花影からそっと視線を逸らした。
(この方が千夜様に似ているから、時々目を奪われてしまう)
顔が似ているからと言って、別の男に見惚れている自分に嫌気がさした。
たとえ千夜に選ばれずとも、千夜が琴と正式に結婚して後宮を追い出されようとも、澄珠はずっと、千夜のことを一途に想い続けようと思っている。叶わぬ恋だとしても、あの幼き日の思い出を、死ぬまでずっと心に刻みつけていたい。
だから、他の男性と新しい恋を、などとは考えていない。そもそも神官は神に仕える身であるため、恋をすることは原則ご法度だ。だから花影に対して格好いいなんて一瞬でも思うのはいけないことのような気がして、澄珠の中に少しの罪悪感が生まれた。