偽り咲く花神さまの後宮
栗萌の屋敷を訪ねると、澄珠を出迎えたのは女中だった。
「申し訳ございませんが、栗萌様はまだお休み中でして……」
「あっ、で、ですよね」
そう言われてみれば、まだ日が昇りきっていない。早く来すぎてしまったかもしれない。澄珠は少し気まずくなって笑った。
女中は気遣わしげに首を傾げる。
「よろしければ、中でお待ちしますか? 澄珠様なら、栗萌様もきっと歓迎なさいます」
案内されて入ったのは、澄珠が何度か足を運んだ馴染みの部屋だった。壁一面の本棚は相変わらずぎっしりと本で埋め尽くされ、机の上にも読みかけの書物が置きっぱなしになっている。
澄珠がその一冊に目を留めていると、背後から女中が笑いを含んだ声を掛けてきた。
「栗萌様は本当に本がお好きなんです。特にそれは、何度も繰り返し読んでいらっしゃいますよ。どうぞ、お座りください」
澄珠は促されるまま椅子に腰を下ろし、机上の本の表紙に目を落とす。
古典に疎い澄珠でも見覚えのある題名だ。香霞の地最古の長編小説とされる、初代花神の後宮を題材にした物語である。
物語は、初代花神が一人の花嫁候補を愛したところから始まる。身分も容姿も申し分ない姫君に一目惚れした花神は、彼女を愛するあまり没落へと歩んでいく。その姫は後々化け狐であったと発覚する。もちろんそれで終わるわけではなく、失意の花神を支える別の花嫁候補が現れ、崩れかけた香霞の地を立て直していく、という展開だったはずだ。
化け狐のくだりは伝説的脚色だとされているが、初代花神の時代に実際に国が傾いた記録はあり、この物語は史実に近い部分があるのではないかとも言われている。
物語は全部で五十章ほどあり、それぞれ別の代の花神が主人公として起用されている。特に三章は、不幸な生い立ちの花嫁候補が花神に見初められて幸せになるという話の流れで、女性から人気だったはずだ。
(栗萌様は、古典もお好きなのね……)
澄珠は待っている間、何気なく机上の本を手に取った。ぱらりと一枚捲ると、紙の質感と共に古の文章が目に飛び込んでくる。全て古文で記されているため読みづらさはあるものの、巫女として学んだ知識があれば解読できないほどではない。
頁をぱらぱらと捲る途中、澄珠はあるところで手を止めた。
突如として、視界が黒に覆われたのだ。三章と記された部分から先の紙が、一枚残らず墨で塗り潰され、文字どころか紙の地の色すら残っていない。無惨に黒く塗り固められた紙面は、異様さを通り越して不気味だった。
胸に疑問が渦巻いた、その時。
かたん、と戸の開く音が部屋に響く。
驚きに本を閉じると、そこに立っていたのは寝間着姿の栗萌だった。
「ふわぁぁあ……澄珠様、おはようございます」
今起きたばかりなのか、眠たげな眼差しをしている。とろりとした表情は少し幼気で、可愛らしさがあった。
栗萌は目を擦りながら澄珠の手元にある本を一瞥すると、途端に表情を輝かせる。
「もしかして澄珠様も、その物語に興味がおありですか? わあ、嬉しいですっ」
栗萌はぱぁっと顔を明るくしながらすっと距離を詰め、澄珠に顔を近付ける。その瞳は、好きなものを語れるのではという期待に溢れていた。
「そうですね、一度は読むべき名作長編と言われていますし……」
澄珠が言葉を選ぶと、栗萌は嬉しげに笑い、弾む声で続けた。
「よろしければ、お貸ししますよ。こちらは古い写本なのですが、新しく作られた版が他の部屋にありますので」
その朗らかな笑顔は一瞬のことで、栗萌ははっとした様子で姿勢を正す。
「……ご、ごめんなさい。朝早く来たということは、何かあったのですよね。わたしってば、こんな軽い話を……」
「い、いえ」
「それで、何があったのですか? 昨夜、琴様とお会いしてどうでした?」
栗萌の問いに促され、澄珠は手短に説明した。
「昨夜もですが……今朝、琴の屋敷に行ったのです」
「……今朝?」
「琴の幼なじみの神官からも、話を聞いてきました」
栗萌は真剣に頷く。そして、その直後に少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ご、ごめんなさい、わたし、本当に今起きたばかりで……。このお話、長くなりますよね。すぐに着替えて、お茶も用意してきますね。少しばかりお待ちください」
そう言い残し、栗萌は小走りで部屋を後にした。
澄珠は本をそっと閉じ、机の端に置いて栗萌の戻りを待った。
ほどなくして、桃色の着物に着替えた栗萌が盆を抱えて現れる。髪も軽く整えられていて、先ほどの寝起きの姿からは一転している。
「お待たせしてしまってすみません。こちら、異国から取り寄せたお茶なんです。最近澄珠様がよく来てくださるので、その、少しでも喜んでいただけたらと思って」
「よいのですか?」
澄珠が目を丸くすると、栗萌はふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
「もちろんです。澄珠様のために用意したのですから」
ことりと小さな音を立てて茶器が机に置かれる。
澄珠は一口、慎重に口に含んだ。馴染みのある香りとは違い、舌に広がるのは新鮮な味わいだった。
「……珍しい風味ですね」
「お気に召しましたか?」と、栗萌の目が少しだけ期待を帯びる。
澄珠が頷くと、栗萌はほっとしたように胸に手を当て、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「後宮に来てから、ずっと一人で本を読むばかりでした。その、お、お友だちと呼べる存在は、これまで一人もいなくて……。こんなことがきっかけですけれど、澄珠様とお話できるようになって、わたし、本当に嬉しいんです」