意地悪なボイスアクターの危険な執着愛から逃れたい

那原Side

那原は『愛君』の収録スタジオに来ていた。

ブースに入ると、壁沿いの椅子には、すでに数名の声優が座っていた。

奥には大御所声優の黒瀬修一(くろせしゅういち)が腰を下ろしていて、その前には、挨拶をするために若手声優たちが縦に一列、8人ほど並んでいた。

那原は、黒瀬の方をちらりと見たあと、その場にいる全員に向かって、丁寧に頭を下げた。


「おはようございます。よろしくお願いします」


列を作っていた声優たちも、那原の方を向いて頭を下げた。


「おはようございます! よろしくお願いします!」


那原は、微笑みを浮かべたまま、近くの椅子に腰を下ろした。

声優の小城茜(おぎあかね)が、隣の椅子にやってくる。


「今日は早いね」

「時間通りですよ」


那原は、そう答えながら、黒瀬の前に並ぶ列を、目だけで示した。


「ああいうの、まだやってるんですね」

「大御所には、挨拶しとかないとね」


若手声優の1人が、緊張した面持ちで黒瀬に近づいていく。

「黒瀬さん、おはようございます。星風プロダクションの東雲(しののめ)リクです。よろしくお願いします」

黒瀬は、一人一人の自己紹介に、鷹揚(おうよう)に頷いていた。


「次、那原くんのところ来るよ」


茜がそう言うと、那原は涼しい顔で、鞄から台本を取り出した。


「僕は結構です」

「そう言うと思った」


茜は苦笑しながら、席を離れようとした。

那原は、その袖を、そっと引いた。


「待ってください」

「何?」

「始まるまで、隣にいてもらえますか」


茜は、まんざらでもないような顔をしながら再び椅子に座った。


「私、忙しいんだけど」

「いいじゃないですか」


若手声優たちは、そんな那原たちをちらちらと見ながら、戸惑っている様子だった。

その中の1人が、恐る恐る、那原に近づいてきた。


「あの……那原さん、ご挨拶させていただいても」


那原は、台本から視線を上げると、にこりと笑った。


「僕へは大丈夫ですよ。もう十分、していただきましたから」


周囲が一瞬、しんと静まり返った。

その空気に気づいたのか、黒瀬が、那原の方へ視線を向けた。


「那原くん。君も若手の頃は、こうして並んだんじゃないのか」

「そうですね」


那原は、あっさりと認めた。


「だったら、挨拶くらいさせてやればいいだろう」

「挨拶に並ぶ時間があるなら、台本を読み込んだ方が、皆さんのためになると思いますが」


その言葉に、茜が小声で「ちょっと、那原くん」と窘めるように言った。

けれど那原は表情ひとつ変えることなく、微笑みを浮かべたままだ。


「では時間なので始めます。最初、黒瀬さんと那原さん、お願いします」


音響監督の声がスタジオに響いた。

那原は台本を手にマイクの前に立つ。

黒瀬は那原を睨むようにしながら、隣のマイクへと歩み寄った。


「よろしくお願いします」


那原は黒瀬に微笑を浮かべ、丁寧に頭をさげた。
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