桜雨

第四話 つむぎ

 暖簾をくぐると、出汁の香りがふわりと鼻をくすぐった。

「ただいま」

 まだ少し照れくさい声だった。

 店の奥から、珠代さんが顔を出す。

「おかえり、千春ちゃん」

 その一言に、私は小さく「ただいま」と返した。

 まだ慣れない言葉だったけれど、口にすると少しだけ胸が温かくなった。

「今日はどうやった?」

「……思ってたより、大丈夫でした」

「そっか」

 珠代さんはそれ以上聞かなかった。

 ただ、「よかった」と笑って、また鍋へ向き直る。

 ぐつぐつ、と小さな音が聞こえる。

 昆布と鰹の香りが店いっぱいに広がっていた。

「ご飯まで少し時間あるし、部屋でゆっくりしといで」

「はい」

 二階へ上がり、制服から部屋着へ着替える。

 鏡の前に座り、肩まで伸びた髪を後ろで一つに結ぶ。

 鏡の中の自分は、少しだけ疲れた顔をしていた。

 でも、朝よりは少しだけ表情が柔らかい気がした。

 窓を開ける。

 夕暮れの風が部屋へ流れ込む。

 桜の花びらが一枚、窓辺へ舞い込んだ。

 私はそれを指先でそっと拾い、本の間へ挟んだ。

 小さな春を閉じ込めるように。

「千春ちゃーん」

 一階から珠代さんの声が聞こえる。

「ご飯できたで」

「今、行きます」

 一階へ降りると、湯気の立つ料理が並んでいた。

 鯖の味噌煮。

 菜の花のおひたし。

 だし巻き玉子。

 豆腐とわかめの味噌汁。

「いただきます」

 二人で手を合わせる。

 味噌汁を一口飲む。

 優しい出汁の味が、ゆっくり身体へ染み込んでいく。

「学校、友達できそう?」

 珠代さんが何気なく聞いた。

 私は箸を止め、少しだけ考える。

「……うん」

 自然と浮かんだのは、笑顔の女の子だった。

「萌恵ちゃんって子が、一緒に帰ってくれました」

「あら、よかったやん」

「街も案内してくれて」

「優しい子やなぁ」

 私は小さく頷く。

 それから、もう一人の顔が頭に浮かんだ。

 困ったことあったら言うてな。

 そう言って、すぐ自分の席へ戻っていった男の子。

 名前は――桜井和。

 そのことは、なぜか口にしなかった。

「明日も学校やし、今日は早めに休み」

「はい」

 食事を終え、お皿を運ぼうとすると、

「あ、それはええよ」

 珠代さんが笑って受け取る。

「今日は疲れたやろうから」

「でも……」

「そのうち手伝ってもらうから、その時よろしく」

 思わず笑ってしまった。

「……はい」

 珠代さんも笑う。

 店の外では、風鈴が小さく鳴った。

 夜風が暖簾をそっと揺らしている。

 私はその音を聞きながら思った。

 まだ「家」と呼ぶには早い。

 それでも、この場所は少しずつ私の居場所になり始めているのかもしれない。
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