「君なら理解してくれるよね」と言われ続けたので婚約を終わりにしました~私を一番に選んでくれたのは辺境伯様でした~
本編
物心ついた頃から、私の隣にはいつも妹のシャナがいた。
二つ年下の可愛らしい妹は、生まれつき身体が弱かった。
春になれば花粉で熱を出し、夏になれば暑さで寝込み、秋から冬にかけては風邪をこじらせる――幼い頃は何度も高熱を出し、そのたびに屋敷中が慌ただしくなった。
医師は毎回のように言ってくる。
「この子は無理をさせてはいけません」
そのように何度も言ってきたのだ。
だから家族は、シャナを最優先にし始める。まぁ、それは当然の事だったのだと思う。
病気の子を気遣うのは家族として当たり前だし、幼い私も「シャナが元気になってくれるなら」と心から願っていた。
だから私は、何も言わなかった。
母はいつも穏やかに笑ってそう言った。
「シャロン、お姉ちゃんでしょう?シャナは身体が弱いの。少しだけ我慢してあげてちょうだい」
その『少しだけ』は、一度として少しだけだった事はないのだ。
誕生日に仕立ててもらうはずだったドレスは、「シャナも外へ出られるようになったから」と妹へ譲った。
楽しみにしていた乗馬の稽古は、「シャナが寂しがるから」と何度も取りやめになった。
家庭教師の授業でさえ、「今日はシャナの体調がいいから」と、先生は妹の部屋で過ごす時間の方が長かった。
もちろん、お父様もお母様も私を愛していないわけではない――私の誕生日には贈り物をくださったし、試験で良い成績を取れば褒めてもくれた。
けれど、その言葉はいつも同じ結びだった。
「シャロンは本当に聞き分けのいい子ね」
「お姉ちゃんだから理解してくれて助かるわ」
その言葉を聞くたび、私は笑顔で頷いた。
そうすることが「良いお姉ちゃん」なのだと信じていたから。
もし私が嫌だと言えば、お父様やお母様を困らせてしまうのはわかっていたから。
何より、病気のシャナを責めるような子になってしまう気がして、それだけは嫌だった。
だから私は、欲しいものがあっても口にしない、何が何でもよいお姉ちゃんを演じた。
行きたい場所があっても、「また今度で大丈夫です」と笑ったり、いつしか我慢することは、息をするのと同じくらい自然になっていた――それが当たり前の日々は、婚約してからも何も一つ変わらなかった。
今年も春の陽気が屋敷を包んでいた。
数日前まで寝込んでいたシャナのために医師から処方された薬を受け取った私は、侍女のミアとともに庭へ向かっていた。
「シャナ様、お庭を散歩なさっているそうです」
侍女の言葉に、私はほっと胸を撫で下ろした。
それならよかった、きっと、熱が下がったのだろう。薬を飲めば、もっと元気になるはずだと思いながら、私は庭園へ足を踏み入れる。
色鮮やかな花々が咲き誇る庭の奥から、鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。
「あっ、この花、とても綺麗!」
その声に私は足を止める。
そのまま生け垣の向こうから聞こえてきたのは、鈴が転がるような明るい笑い声だった。
「まあ、この花、とても可愛らしいわ」
思わず木々の隙間から様子を窺うと、そこにはシャナの姿があった。
淡い桃色のワンピースを身にまとい、侍女に付き添われながらゆっくりと庭園を歩いている。
つい数日前まで高熱を出して寝込んでいたとは思えないほど、その頬には健康的な赤みが差していた。
花壇の前で足を止めたシャナは、白い小花をそっと摘み上げながら、嬉しそうに笑っていた。
「見て。とても可愛らしいでしょう?」
「本当ですね、シャナ様」
「お姉様にも見せたいわ。きっと『綺麗ね』って笑ってくださるもの」
シャナのその言葉に私は自然と口元が緩んだ。
昔からシャナは、何か綺麗なものや珍しいものを見つけると、真っ先に私へ見せに来る子だった。
庭に咲いた花も、窓辺へ止まった小鳥も、そして虹を見つけた日も。
いつだって「ねぇねぇ、お姉様見てみて!」と駆け寄ってきた。
その姿が愛おしくて、私は妹の頭を撫でるのが好きだった。
だからこそ、今こうして元気そうに笑っている姿を見ることができて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
――よかった。
「お嬢様、お声を掛けられますか?」
隣に立つミアが、小さな声で尋ねる。
私は少しだけ考え、それから首を横に振った。
「いいえ。せっかく楽しそうなのだもの」
そう言って微笑みながら、先ほどの会話を思い出しながら、ミアに声をかける。
「あとで部屋へ行って、お花を見せてもらうわ」
きっとシャナは嬉しそうに話してくれるだろう。
『今日はこんなお花が咲いていたの』
『今度は一緒に見に行きましょう』
そのように、目を輝かせながら。
その様子が目に浮かんで、自然と頬が緩んだ。
薬は後で届けてもらえばいい、元気な姿を見られただけで十分だった。
私はそっと踵を返そうとする――その時だった。
「旦那様も奥様も、本当にお優しいですね」
侍女の一人が、しみじみと呟く声が聞こえた。
私は思わず、耳を澄ませてしまった。
侍女の話は続く。
「ええ。シャナ様には決してご無理をさせませんもの」
「少しでも疲れたご様子なら、すぐお部屋へお戻しになりますし」
「本当に大切にされていますわ」
その言葉に、私はほんの少しだけ足を止めた。
――そうね。
身体が弱いのだから、しょうがない。それでいいのだから。
そう思う一方で、胸の奥を小さな棘が掠める。
けれど、その違和感に名前を付けることはできなかった。
私は静かに微笑み、自分へ言い聞かせる。
シャナが元気なら、それでいい――私は姉なのだから。
▽
その日の夜、本を読もうと書庫へ向かった私は廊下の角で足を止めた。
少し先の応接室から、両親の声が聞こえてきたからだ。
「今日のシャナは元気そうだったな」
「ええ。でも、あの子にはまだ無理をさせたくありませんわ……シャロンには悪いけれど、もう少し我慢してもらいましょう」
母親の言葉に、私は目を見開いた。
それと同時に、胸が小さく疼いてしまった。
対し、父親は母親の返事を返してきた。
「シャロンは昔から丈夫だ。あの子なら問題ない……シャナは繊細だからな。少しでも負担を減らえてやらねば」
「そうですわね。シャロンは理解してくれますもの」
二人は、それ以上何も言わなかった。
悪意など欠片もない声で、また本当に、本心からそう思っているだけなのだ。
だからこそ胸が苦しかった。
――私は丈夫だから。
――私は理解してくれるから。
その言葉は、いつしか「だから我慢して当然」という意味に変わっていたのだと、その時初めて気が付いたのだ。
微かに体が震えてしまっているのはどうしてなのかわからない。
廊下の窓から夜風が吹き込んでおり、冷たい風が頬を撫でるのに、胸の奥だけがひどく熱かった。
それから数日後――今日は王宮主催の春の夜会だった。
本日は私の婚約者であるレオンハルト様と正式に並び、公の場へ出る初めての日。
鏡の前で仕立てたばかりの淡い水色のドレスを整えながら、私は自然と口元を緩めていた。
これまで何度も延期になった約束なのだが、今日は違う。
今日は大丈夫なのだと、そのように信じたかった。
玄関ホールに行くと、そこには正装姿のレオンハルト様が待っていた。
「よく似合っているよ、シャロン」
「ありがとうございます、レオンハルト様」
その一言だけで、胸の奥がほのかに温かくなる。
今日という日を、私はずっと楽しみにしていた。
これまで何度も延期されてきた、レオンハルト様と正式に並んで出席する初めての夜会。ようやく叶うのだと思うだけで、鏡の前で何度も笑みがこぼれた。
私とレオンハルト様はこのまま何事もなく、馬車へ乗り込める。そう信じて一歩を踏み出した、その瞬間だった――屋敷の扉が勢いよく開いた。
「旦那様!」
使用人が青ざめた顔で玄関ホールへ飛び込んでくる。
その声に、近くにいた父が振り返った。
「どうした?」
「シャナ様がお庭でお倒れになりました。急にふらつかれ、そのまま意識を失われたと……!」
侍女のその言葉を聞いた瞬間、辺りの空気が一瞬にして張り詰めた。
「医師は?」
「既に使いを出しております。奥様と侍女たちが、ただいまシャナ様をお部屋へ運んでおります」
「分かった。私もすぐに向かう!」
父が屋敷の奥へ歩き出そうとした、その時だった。
「シャナが倒れた?」
隣にいたレオンハルト様が、鋭い声で問い返した。
彼は幼い頃から我が家へ出入りしている。
私との婚約が決まるよりも前から、身体の弱かったシャナを妹のように気に掛けていた。シャナもまた、何かあるたびに彼を頼っていた――だから、心配する気持ちは理解できる、理解できるはずだった。
「レオンハルト様」
私が名前を呼ぶと、彼はようやく私を見た。
けれど、その視線はすぐに屋敷の奥へ戻ってしまう。
「シャロンすまない。僕もシャナの様子を見てくる」
「それは……お父様もお母様もいらっしゃいます。それに、もうお医者様も呼ばれているのでしょう?」
口にしてから、自分でも驚いた。
これまでの私なら、何も言わずに頷いていたはずなのに。
レオンハルト様は一瞬だけ言葉に詰まったのだが、すぐに困ったような笑みを浮かべる。
「そうだとしても、意識を失ったと聞いて放ってはおけない。シャナは昔から、こういう時に僕を頼っていたから」
「ですが、今日は……」
――私たちにとって、大切な日ではなかったのですか、そのように、そう続けたかった。
けれど、声にならなかった。
「君なら分かってくれるよね?シャロン」
レオンハルト様のその言葉は、毎回聞き慣れた言葉だった。
柔らかな声音も、申し訳なさそうな表情も、何度も見てきた――そして私は、そのたびに頷いてきた。
だからきっと彼は、今日も私がそうすると信じて疑っていない。
「……はい」
ようやく絞り出した返事は、自分のものとは思えないほど小さかった。
けれどレオンハルト様は、それで十分だったらしい。
「すまない。埋め合わせは必ずするから!」
そう言い残し、父の後を追うように屋敷の奥へ駆けていった。
遠ざかる足音が、やけに大きく響く。
残された玄関ホールは、先ほどまでと同じ場所とは思えないほど静まり返っていた。
私は一人、ゆっくりと息を吐く。
ああ、まただ。
今日も結局、私は後回しなのだ……これからもずっと。
そう思った瞬間、自分で自分の考えに驚いた。
今までなら、シャナが大変なのだから仕方がないと迷わず自分に言い聞かせていたはずだった。
それなのに今日は、その言葉が胸の奥へ落ちていかない。
父や母がいるはず、侍女達もいるし、医者も来る。
大丈夫だと、そのはずなのに――それでもレオンハルト様は、私との約束を置いてシャナのもとへ向かった。
私と過ごすことよりも、シャナのそばにいる事を選んだのだ。
――レオンハルト様は、本当に私の事が好きなの?
「お嬢様……」
ミアが心配そうに私を見つめている。
私はその視線から逃れるように、わずかに顔を背けた。
「……王宮へ行きましょう」
「ですが、レオンハルト様がお戻りになるまでお待ちにならなくても……」
「待っていたら、きっと夜会が終わってしまうし……それに、正直疲れちゃったわ」
思ったよりも穏やかな声が出た。
それが返って、自分でも悲しかった。
「婚約者が来られなくても、私まで欠席する理由にはならないもの」
私は笑う、笑えているつもりだったはずなのに、唇はわずかに震えていた。
私の顔を見たミアは何も言わなかった。
ただ、泣きそうな顔で私を見つめていた。
▽
王宮の大広間は、華やかな音楽と人々の笑い声に満ちている。高い天井からは幾重ものシャンデリアが降り注ぐように輝き、その光を受けた令嬢たちのドレスが色とりどりの花畑のように揺れていた。
貴族たちは楽しげに談笑し、笑い声が絶えない。けれど、その賑わいの中にいても、私はまるで自分だけが別の世界にいるような気持ちだった。
壁際で一人、グラスを手に立ち、そして婚約者を伴わずに夜会へ現れた令嬢。
何人もの視線がこちらへ向けられ、ひそやかな囁き声が耳に届く。
「お一人なのかしら」
「あの令嬢、確かアルベルト家の令嬢ではなかったですか?確か婚約者がいたはず……」
「その婚約者様は?」
聞こえないフリをしていても、胸の奥が少しずつ冷えていく。
この場にいる事が、急に心細くなった。
誰かに気付かれないよう、小さく息を吐いているその時だった。
ふと視線の先に、一人の男性が目に入る。
広場の隅に立っているその男性は、周囲の華やかな貴族たちとはまるで雰囲気が違っていた。
三十代半ばほどだろうか?
濃紺の礼装を纏っているものの、その上からでも分かるほど肩幅が広く、鍛え上げられた身体つきをしている。
日に焼けた肌に短く整えられた黒髪。腰には儀礼用とはいえ立派な剣が下げられ、その姿は舞踏会より戦場の方が似合いそうだったな感じの姿だった。
それほど堂々とした体格なのに、不思議なことに本人はひどく居心地が悪そうだった。
近くで令嬢たちが笑えば、一歩下がり、給仕が通れば邪魔にならないよう壁へ寄り、誰かに話しかけられそうになるたびに視線を逸らしながら逃げ道を探しているようにも見えた。
思わず笑ってしまった。
――もしかしてあの方も、夜会が苦手なのかしら。
ほんの少しだけ親近感が湧いた。
そもそも私も夜会はあまり好きではない。それに今日はレオンハルト様がいないため、居場所がないと思っていた。
どうやら、私だけではないらしいと思ってしまった――気づけばいつの間にか私はその人の方へ歩いていたのだ。
「あの……」
静かに声を掛けると、男性は肩をぴくりと震わせた。
「は、はい!」
「っ!」
勢いよく振り向いた拍子に、持っていたグラスを落としそうになり、慌てて持ち直す。
同時に私も驚いてしまったのだが、それに対しても男性は謝ってくれた。
「ああ!も、申し訳ございません!お、驚かれてしまった、ですよね?」
低く落ち着いた声とは裏腹に、その様子はどこかぎこちない。
私は思わずくすり、と再度笑ってしまった。
「いえ、大丈夫ですわ……もしかして……夜会はあまりお好きではありませんか?」
「はは……お見苦しいところをお見せしました」
少し困ったように笑った後、背筋を伸ばして男性の方は挨拶をしてくださった。
「俺……ああ、いいえ、私は……辺境伯のアーノルド・ルーベンと申します」
「アルベルト家の長女、シャロン・フォン・アルベルトでございます」
互いに一礼を交わした後、アーノルド様は肩を竦め、小さく息を吐いた。
「実を申しますと、このような社交の場はどうにも苦手でして……」
「そうなのですか?」
「ええ。領地では剣を握っている時間の方が長いものですから……魔物討伐や騎士たちとの鍛錬なら一日中でも平気なのですが、貴婦人方との会話となると、何を話せばいいのか分からなくなるのです」
「ふふ……」
この人の話を聞いていると、思わず笑みが出てしまう。
先ほどまで胸を締め付けていた苦しさが、少しだけ和らいだ気がした。
不器用さが出ていて、何処か可愛らしく見えてしまったとは、本人の前では言えない。
笑っている私に対し、頬を赤く染めながらアーノルド様は話を続けた。
「笑わないでください。本当に困っているのです」
「ご、ごめんなさい。でも……少し安心しました」
「安心?」
「私だけが、この夜会に馴染めないのだと思っていましたから」
そう言うと、アーノルド様は初めて私の隣を見た。本来ならば婚約者が立つはずの場所――そこに誰もいないことに気付いたのだろう。
けれど、理由は聞かなかった。ただ穏やかに頷き、静かな声で言った。
「それは……少し寂しい夜になってしまいましたね」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
――寂しい。
そう言ってもらえたのは初めてだった。
今まで誰もこのように言う。
「シャナ様は大丈夫ですか?」
妹の事しか言わなかったし、私がどんな気持ちでここに立っているのか、気遣ってくれた人はいなかった。
気付けば視界が滲んでいた。
「あ……申し訳ありません」
慌てて目元を押さえる私に、アーノルド様は狼狽えたように手を振る。
「す、すみません! その……私は何か失礼なことを……」
「いいえ。違うのです……っ」
もしかしてアーノルド様は自分が泣かせてしまったのではないだろうかと考えているみたいだが、違う。これは、ただ感動した涙だ。
涙を拭いながら答えると、アーノルド様は心底安心したように胸を撫で下ろした。
「……そ、それならよかった」
そう言って照れくさそうに笑う姿は、屈強な体格とは不釣り合いなくらい実直だった。
やがて彼は一歩前へ出ると、大きな手を差し出した。
「もしご迷惑でなければ、一曲お付き合いいただけませんか」
「……え?」
「私も踊りは得意ではありません。ですから、お互い様ということで」
節の太い、大きな手――これは剣を握り続けてきた人の手だった。
私は自然と笑みを浮かべ、その手にそっと自分の手を重ねる。
不思議と、その温もりは張り詰めていた心をゆっくりと解いてくれるようだった。
▽
夜会から戻った屋敷は、昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。
私は誰とも顔を合わせたくなくて、そのまま自室へ戻ろうとした。
「……お姉様」
ふと、小さな声に呼び止められる。
思わず振り返ってみると、廊下の先にシャナが立っていた。
薄い寝間着の上に肩掛けを羽織り、不安そうにこちらを見つめている。
「あなた、起きていて大丈夫なの?」
思わずそう尋ねると、シャナは泣きそうな顔で首を横に振った。
「ごめんなさい……今日は倒れてなんていないの、お姉さま……」
「え……?」
突然、シャナの言葉に驚いた私は、その場で足を止める。
泣きそうな顔をしながらシャナは話を続ける。
「あのね……少し立ちくらみがしただけなの。でも、お父様もお母様も『今日はもう寝ていなさい』って……それに、レオンハルト様まで呼びに行ってしまって……私は、大丈夫だって言ったのに」
シャナは拳を握りしめるようにしながら、私に目を向けている。
それを聞いて、私は何も言えなかった。シャナは話を続ける。
「私ね、お姉様に申し訳ないって、ずっと思っていたの……私のせいで、お姉様の約束がなくなっていくのを知ってた。でも、お父様たちは『お姉ちゃんは優しいから』って……」
「……」
「私、お姉様みたいになりたかったの、本当よ?」
その言葉に胸が締め付けられた。それと同時にシャナもまた、家族の期待に縛られていたのだ。
誰も悪意はなかった、誰も私を嫌っていたわけでもない。
でも――誰一人として、「私はどう思うのか」を聞いてはくれなかったのだ。
私は少し安心した顔をみせながら、ゆっくりとシャナの頭を撫でる。
「シャナ、あなたは悪くないわ」
「でも……」
「悪いのは、私も含めてみんななのだから……ね?」
そしてそのまま、私は初めて口にした。
「私ね、本当は寂しかったのよ」
その言葉を言った瞬間、胸の奥で長年凍っていたものが溶けていく気がした。
▽
翌日、レオンハルト様が屋敷を訪れた。
応接室へ入るなり、彼は頭を下げた。
「昨日は、本当にすまなかった!」
「……そう、ですか」
「でも、仕方がなかったんだ」
私は静かに彼を見つめる。
不思議と感情が表に出なかった自分がいる。
きっと今、私はレオンハルト様の顔を何もないかのように見つめていたのかもしれない。
それに気づかないのもレオンハルト様だ。
「……シャナが倒れたと聞いて、放ってはおけなかった」
「ええ」
「君なら理解してくれると思っていた」
また、その言葉だ。
――ああ、また、それなのね。
私はゆっくりと息を吐いた後、左手の薬指へ視線を落とす。
そこには婚約の日、レオンハルト様が自ら指を通してくれた、小さなサファイアの指輪があった。
この指輪を受け取った日の事を、私は今でもよく覚えている。
嬉しくて、何度も何度も眺めた。この人となら幸せになれるのだと、本気で信じていた――けれど、その幸せはいつも「あとで」だった。
私はそっと指輪を外し、テーブルの上へ静かに置く。
澄んだ音が、部屋に小さく響いた。
「シャロン……?」
レオンハルト様が困惑したように私を見る。
その表情は、何が起きているのか理解できないと語っていた。
私は穏やかに微笑んだ。
決して、悲しみなど見せるモノかと思いながら。
「あなたの考えを理解しました」
「……え?」
「――だから、終わりにいたします、あなたとの関係を」
レオンハルト様はその言葉を聞いて固まり、同時に数秒の沈黙が流れる。
やがて彼は顔色を変えた。
「ま、待ってくれっ!」
椅子を鳴らして立ち上がる。
「終わりとは、どういう意味だ!?」
「婚約を解消してください」
はっきりと言葉にすると、自分でも驚くほど胸は静かだった。
泣き崩れたり声が震えると思っていた。
けれど、どうやら違ったらしい。
何年も胸の奥に積もり続けていたものが、ようやく言葉になっただけだった。
きっと私は、既に諦めていたのかもしれない。レオンハルト様の関係を。
対し、レオンハルト様が怒りを露わにしながら叫び、一歩近づいてくる。
「そんなこと認められるはずがない!昨日のことなら謝ったじゃないか!これからは気を付ける。だから――」
「昨日だけではありませんよ、レオンハルト様」
「え……」
「私の誕生日も、あなたはシャナを優先しました」
レオンハルト様の肩がぴくりと震える。
「初めて二人で出掛ける約束も、仕立て屋でウェディングドレスを選ぶ日も、婚約式の打ち合わせも――」
一つ口にするたび、彼の表情が少しずつ曇っていく。
「そして、夜会も何回ダメにされたか、数え切れません」
最後にそう告げると、彼は何も言えなくなった。
きっと思い出したのだろう。私が笑顔で「大丈夫です」と送り出してきた日々を。
「でも……シャナは身体が弱かったんだ……放っておけなかった」
「ええ、そうですね。わかっています」
「君なら理解してくれると思っていた」
「……理解してくれる、ですか」
私はその言葉に、小さく目を伏せる。
何度聞いただろう、その言葉を。
お姉ちゃんだから、理解してくれる、と。
何回もそう言われるたびに、私は自分の気持ちを飲み込んできた。
「どうして、いつもその言葉になるのですか?」
私の発言に対し、レオンハルト様は答えられない。
「私は一度も、シャナを助けないでほしいと言った事はありません……確かにシャナは大切な妹ですから」
むしろ、私だって願っていた。
シャナが元気になってほしい、笑っていてほしいと。
だからこそ、自分の寂しさには蓋をしてきた。
「だけど……私が望んだのは、たった一つだけです」
レオンハルト様の体が微かに動く。
対し、私はまっすぐ彼を見つめる。
「――一度だけでいいから、私を選んでほしかった」
その言葉に、レオンハルト様の瞳が大きく揺れた。
「僕は……」
何かを言おうとしたのだが、レオンハルト様の言葉は続かなかった。
思い当たる記憶が多すぎたのだろう。
そして、私を選んだ日など一日もなかった事に。
「まさか……シャナを見捨てろと言うのか?」
「……違いますよレオンハルト様、どうしてあなたは私の話をしていても、最後には必ずシャナのお話になるのでしょうか?」
レオンハルト様は息を呑む。
目を見開きながら私を見ていたことに対し、静かに、私は答えを言った。
「私は、あなたにとっていつも二番目だったんですよね?」
「そんなことは……!」
「ありますよ、レオンハルト様」
穏やかな声で私は言い切った。
そして、そのまままっすぐな瞳でレオンハルト様を見た。
「あなたは私よりシャナを選んだのではありません……あなたは、いつも『シャナを助ける自分』を選んでいたのです」
「……っ」
その瞬間、レオンハルト様の表情が凍りついた。
初めて、自分が何をしてきたのか理解したようだった。
「君は……理解してくれていたじゃないか?」
「ええ。理解していました」
――だから、我慢した。
「けれど、私が傷つくとは思わなかったのですか?あなたは私の婚約者でしょう?」
「それは……」
「私を見捨てたのは、あなたですよレオンハルト様」
その一言に、レオンハルト様は俯いた。
彼は何も答えられなかった。
テーブルの上に置かれたサファイアの指輪だけを、ただ呆然と見つめている。もうその指輪はもう、誰のものでもなかった。
「さようなら、レオンハルト様」
私は一礼すると、静かに部屋を後にする。
背後から私を呼ぶ声は、最後まで聞こえなかった。
▽
それから一年後――季節は巡り、辺境にも穏やかな春が訪れていた。
風はまだ少し冷たいけれど、庭には色とりどりの花が咲き始め、小鳥たちが楽しそうにさえずっている。
遠くに連なる山々は柔らかな朝日に照らされ、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。
シャナはすっかり健康を取り戻したと聞く。
毎日のように庭を歩き、ときには町まで出掛けられるほど元気になったそうだ。
以前なら考えられなかった事――その知らせを聞いたとき、私は心から嬉しいと思った。
シャナが元気になったことを、誰より願っていたのは私だったのだから。
両親もようやく、自分たちが無意識のうちに私へばかり我慢を強いてきたことに気付いたらしい。何度も謝罪の手紙が届いた。
父は短いながらも不器用な言葉で詫び、母は便箋が涙で滲んでしまったのではないかと思うほど長い手紙を書いてくれた。
因みに、シャナからも手紙が届く。
今日、庭に咲いた花の事や、町で見つけた可愛らしいお店の事、そして最後には、必ずこう書かれていた。
『今度はお姉様と一緒に散歩に行きたいです!』
その手紙を読むたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
私は別にシャナの事は悪いと思っていないし、恨んではいない。
今でも、シャナの幸せを願っている――ただ、両親の事は既にどうでもいいかと思っている。
今更、謝罪されてもどのように接すれば良いのかわからないのだ。
だからシャナのみ返事を書き、幸せを願うだけ。
それでも、あの屋敷へ戻る事はないだろう。
私にはもう、大切な居場所があったから。
「――シャロン」
聞き慣れた声に振り向くと、扉から顔を覗かせたのは、辺境伯のアーノルド・ルーベンだった。
朝食の時間だというのに、すでに鍛錬を終えたらしく、軽く汗を流したばかりの姿で笑っている。
「お待たせしました、アーノルド様」
「いや、私が少し早かっただけだ」
そう言って椅子を引いてくれる。
最初は辺境伯自らそんなことをしてくださるのが申し訳なくて落ち着かなかった。
けれどアーノルド様は、照れくさそうに笑いながら言った。
「夫が妻のために椅子を引くのは普通のことではありませんか」
その言葉があまりにも自然で、私は何も言い返せなかった。
食卓には焼きたてのパンと温かなスープ、領地で採れた新鮮な野菜を使った料理が並んでいる。
豪華な王都の晩餐には及ばないかもしれない――それでも私は、この食卓が好きだった。
「今日は執務も少ないので、午後には外に出かけませんか?」
「どちらへ?」
そう尋ねると彼は少し考えるように首を傾げ、それから穏やかに笑った。
「そうですね……では、シャロンが行きたい場所へ」
その一言に、私は思わず目を瞬かせた。
以前の私なら、きっと答えていただろう。
『どこでも構いません』
『皆様のお好きな場所で』
そのように、曖昧な返事をしていたかもしれない。
けれど今は違う。
「では……山の上のお花畑へ行きたいです」
「ああ、あそこですか」
アーノルド様は嬉しそうに頷いた。
「ちょうど今、一面に花が咲いている頃です」
「本当ですか?」
「ええ。今度は私がご案内します」
その言葉に胸が弾む。
ふと、幼い頃のことを思い出した。
『お姉様、見てください!』
花を見つけて笑顔で駆け寄ってきたシャナの姿。
あの頃の私は、いつもシャナの見つけた景色を見ていた。
けれど今日は違う。
今日は私が見たい景色を、隣にいる人が一緒に見に行こうと言ってくれる。
それだけで、こんなにも嬉しく感じるのだろうか?
アーノルド様は最初から最後まで、一人のシャロンとして見つめてくれた。
私の笑顔を喜び、私の悲しみに寄り添い、私の望みを当たり前のように尋ねてくれる。
その優しさが、どれほど私を救ってくれたのか――きっと本人は気付いていない。
「参りましょうか、シャロン」
差し出された大きな手を、私は迷うことなく握る。
節の太い、温かな手――あの日、夜会で初めて重ねた手と同じ温もりだった。
「はい、アーノルド様」
今日もその手はとても大きく、優しく私を包んでくれる。
私がそれが嬉しくてたまらなかった。
もう、誰も私を後回しにしない。
私は私の足で、自分の選んだ道を歩いていく。
その隣には、私をいつも一番に見てくれる人がいるのだから。
辺境の空は今日もどこまでも澄み渡り、柔らかな春風が二人の未来を祝福するように吹き抜けていた。


