初めて聞いた音

初めて聞いた音

プロローグ 「夏の日に聞いた音」

蝉の声が、校舎の壁にぶつかっていた。

八月の太陽は、歩いているだけで体力を奪っていくほど強く、体育館の中からは絶えずボールの音と歓声が響いていた。

黒川鈴は、少し離れた場所から兄の背中を見つめていた。

コートの中央で走る兄、黒川蓮。

昔から、蓮は誰かのために頑張る人だった。

自分より周りを優先して、苦しい時ほど笑う人。

「……お兄ちゃん、すごいな」

小さく呟いた声は、体育館の歓声に消えていった。

試合の休憩中、鈴は一人で校舎の外へ出た。

暑さから逃げたかっただけだった。

……そのはずだった。

「……?」

どこからか、音が聞こえた。

人の声でも、ボールの音でもない。

ギターだった。

懐かしい音。

でも、違う。

昔聞いた音とは違う。

誰かの思い出じゃなく、今ここで鳴っている音だった。

鈴は足を止めた。

忘れたと思っていた。

もう聞くことはないと思っていた。

それなのに。

その音だけは、胸の奥にしまっていた何かを簡単に見つけ出した。

その瞬間、夏の風がふわりと吹き抜けた。

風に運ばれるように届いたその一音に、私の心は一瞬で奪われた。

音の先にいたのは、一人の少年だった。

表情までは見えなかった。

それでも、肩を揺らして笑っていることだけは分かった。

その笑顔と、楽しそうに鳴るギターの音は、夏の景色と一緒に私の心へ焼き付いた。

ギターを抱え、夏の風の中で静かに弾いていた。

心臓が、今までにないほど大きく跳ねた。

この気持ちが何なのか、その時の私はまだ知らなかった。

ただ、もう一度あの音を聴きたい。

その想いだけが、胸の中に静かに残っていた。

やがてギターの音は止み、会場のざわめきが少しずつ耳に戻ってくる。

「鈴!」

少し離れた場所から、蓮が手を振っていた。

試合の休憩が終わる時間なのだろう。

私は最後にもう一度だけ、あの少年がいた場所へ目を向けた。

けれど、そこにはもう誰もいなかった。

「……お兄ちゃん。」

「ん?」

「私、この高校に通いたい。」

蓮は驚いたように私を見つめた。

「……神楽坂に?」

私は小さく頷く。

「……お願い。」

それだけ伝えると、私はもう一度、少年がいた場所を見つめた。

理由なんて、自分でも分からなかった。

ただ一つだけ、確かな想いがあった。

もう一度、あのギターの音を聴きたい。
< 1 / 2 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop