初めて聞いた音
第12.5話 「変なやつ」

俺は読み終わると、知らないうちに涙が溢れていた。

黒川にだけは見られたくなかった。

だから俺は、息を殺すように泣いた。

静かに部室を出て行こうとした黒川を、俺は無意識に引き止めていた。

(一人になりたくない。)

(行かないでくれ。)

そんなことを考えていた。

「ちょっとだけ。」

「ここにいますね。」

優しい声だった。

その一言だけで、少しだけ息ができる気がした。

今は何も言えない。

何を言っても、涙が溢れそうだった。

どのくらい経ったんだろう。

部室には静かな時間だけが流れていた。

「……ごめん。」

やっと出た言葉は、それだけだった。

「なんで謝るんですか?」

黒川は不思議そうに俺を見る。

「私が居たくて、ここに居るだけです。」

俺は小さく笑った。

「……お前。」

「優しいのな。」

「そうですか?」

「うん。」

「お前は優しいよ。」

その時、ふわっとフードが頭にかぶせられた。

きっと、俺の顔を見られたくないと思ってやったんだろう。

そういうところなんだよ。

俺は少しだけフードを整えた。

「チャイム鳴るまで、ここにいますね。」

「……ん。」

それしか返せない自分が、少し情けなかった。

キーンコーンカーンコーン。

チャイムが鳴ってしまった。

まだ、このままでいたかった。

「あっ。」

黒川が立ち上がる。

「信先輩。」

「もう大丈夫ですか?」

俺はフードを外し、小さく頷いた。

「うん。」

「落ち着いた。」

黒川は俺の顔を見ると、安心したようにほっと息をついた。

「どうしますか?」

「まだ部室にいますか?」

まだ、一人になりたくなかった。

「いや。」

そう言って立ち上がる。

「お前。」

「教室まで送る。」

黒川は少し笑って頷いた。

「じゃあ。」

「送られます。」

部室を出た瞬間。

俺はまた、無意識に黒川の制服の裾を掴んでいた。

何も聞かない。

何も話さない。

それなのに、不思議と気まずさはなかった。

ゆっくり歩いているうちに、気づけば黒川の教室の前まで来ていた。

「着きましたよ。」

黒川が振り返って俺を見る。

「一人で行けますか?」

「あぁ。」

俺は小さく頷いた。

無意識に掴んでいた制服の裾から、ゆっくりと手を離す。

正直。

離したくないとまで思ってしまった。

「じゃあ。」

黒川は小さく手を振る。

「また放課後。」

そう言って教室へ入っていった。

俺もそのまま自分の教室へ向かう。

教室に着き、自分の席へ座ると、透が静かに近寄ってきた。

「お前。」

「目、腫れてね?」

「大丈夫か。」

「大丈夫。」

「ちょっとな。」

そう言いながら、ポケットから詩音の手紙を取り出した。

透はその封筒を見る。

「……。」

「お前、読んだのか。」

「あぁ。」

俺はゆっくり頷く。

「読んだ。」

「最後まで、あいつらしかったよ。」

「最後までふざけてた。」

自然と小さく笑みがこぼれる。

それを見た透は何も言わず、俺のフードを頭にかぶせた。

「……?」

「お前。」

「今の顔、ひどいから。」

「今日は被っとけ。」

それだけ言うと、透は自分の席へ戻っていった。

「……ありがと。」

聞こえないくらい小さく呟く。

その時だった。

ブーッ。

スマホが震えた。

画面を見ると、晴先輩からだった。

『鈴ちゃん文化祭に誘いたいから昼休み集合!』

思わず笑ってしまう。

「……相変わらずだな。」

いつも通りの晴先輩。

いつも通りの軽音部。

その”いつも”が、今は少しだけ嬉しかった。

昼休み。

晴先輩に集められ、俺たちは黒川の教室へ向かった。

「え?」

教室へ入ると、黒川が目を丸くした。

「なんで先輩たちいるんですか?」

その驚いた顔が少し面白くて、俺は一人、小さく笑った。

そのまま屋上へ向かい、いつも通り騒がしい昼休みが始まる。

晴先輩は相変わらずうるさいし、美月は笑ってるし、透は静かだ。

そんな中。

黒川がちらっと俺を見た。

「信先輩。」

「目、もう大丈夫ですか?」

俺は目元へ手をやる。

「ん?」

「まだ腫れてるか?」

「はい。」

「少しだけ。」

……よく見てるな。

多分こいつは。

俺だけじゃなく、周りのこともよく見てるんだろう。

その後は晴先輩のウザ絡みが始まり。

黒川が部活届をまだ出していないことが分かって、みんなで職員室へ向かった。

そこで初めて知る。

橘先生。

いや、はるちゃんが黒川の担任だった。

俺も驚いたが。

黒川の方が何倍も驚いていた。

部活届に判子が押される。

その瞬間。

黒川は正式に軽音部の一員になった。

昼休みも終わりに近づいた頃。

晴先輩が思い出したように声を上げる。

「そうだ!」

「鈴ちゃんの連絡先、まだ持ってないや!」

……そういえば。

俺も持ってなかった。

「おい。」

黒川が静かに振り返る。

「はい?」

俺はスマホを取り出した。

「先に俺の連絡先、渡しとく。」

「何かあったら連絡しろ。」

「はい。」

黒川は何の迷いもなくスマホを取り出し、俺と連絡先を交換した。

……なんの警戒もない。

本当に。

変なやつだ。

「じゃあ。」

「また放課後。」

そう言って俺は教室へ戻った。

放課後。

俺は透を置いて、黒川の教室へ向かった。

理由は分からない。

ただ、誰よりも先にあいつの顔が見たかった。

そんな気がした。

「黒川、行くぞ。」

こいつは、本当に感情がころころ変わる。

驚いた顔。

泣いた顔。

遠慮がちに笑う顔。

「え?」

「一人で行けますよ!」

今は少し驚いた顔をしていた。

「たまたまだよ。」

そう言うと、黒川は素直に頷いた。

部室へ着くと、昼休みに話していた文化祭のことを本格的に決めることになった。

そんな中、黒川がぽつりと言う。

「私、ギター弾きたいです。」

俺も。

晴先輩も。

美月も。

透も。

みんな驚いていた。

詳しく聞くと、小さい頃に少しだけ弾いていたらしい。

蓮先輩も少しなら弾けるらしいが、もう弾かないだろうと話していた。

晴先輩はいつもの調子で冗談を言う。

だけど黒川は、少し真面目な顔で、

「やめといた方がいいです。」

そう言った。

その空気で、なんとなく察した。

だから俺は自然と口を開いていた。

「俺が教える。」

それから話は驚くほどスムーズに進んだ。

今度はバンド名。

何がいいかみんなで考えていると、

「夏の思い出……。」

黒川が小さく呟いた。

その言葉を聞いた瞬間。

去年、詩音と話した夏を思い出した。

「サマーメモリーズ。」

その名前に決まった。

俺にとって夏の思い出は、詩音との思い出が一番大きい。

だけど。

これからは少しずつ変わっていくのかもしれない。

気づけば部室には俺と黒川だけ。

晴先輩から鍵を任され、二人で職員室へ向かう。

「そういえば。」

「夏の思い出ってなんだ?」

俺が聞くと、黒川はぴたりと足を止めた。

何か覚悟を決めたように、ゆっくり話し始める。

去年の夏。

俺のギターを聞いたこと。

「あの時の先輩。」

「すごく楽しそうに弾いていて。」

「その姿を見た瞬間。」

「心臓が、今までにないくらいうるさくなったんです。」

照れながら話す黒川。

「もう一度聞きたくて。」

そんなことを言われたのは。

詩音以来だった。

少しの沈黙。

俺はふっと笑った。

「そっか。」

「それで俺に、弾け弾けってうるさかったのか。」

「そ、そんなに言ってないです!」

慌てて否定する黒川を見て、思わず笑ってしまう。

「……ありがとうな。」

「え?」

黒川が顔を上げた。

「多分。」

「お前がいなかったら。」

「俺、未だにギター弾けてなかったと思う。」

少し空を見上げる。

「そういえば。」

「あん時の音。」

「今、出せてるか?」

「え?」

黒川はきょとんとした顔をする。

「正直にどうぞ?」

「……。」

少し考えたあと。

「じゃあ。」

「遠慮なく言いますね。」

小さく咳払いをする。

「ゴホン。」

「全然ダメダメです!」

「……おい。」

思わず苦笑する。

「でも。」

黒川はすぐ笑顔になった。

「今の音も好きですよ。」

「……。」

何も言えなかった。

「先輩?」

「お前は。」

俺は軽く黒川の頭を小突く。

「いたっ!」

「なんで叩くんですか?」

「そういうこと。」

「しれっと言うな。」

その一言で、顔が熱くなる。

思わず顔を逸らした。

夕日に照らされた俺の耳は、きっと少し赤くなっていた。

(やっぱり、こいつは変なやつだ。)

(俺の心を、簡単に掻き乱してくる。)
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