記憶の欠片

心だけが覚えていた

 ホームルームが終わり、生徒たちが次々と帰り支度を始める。


 「愛梨、一緒に帰ろ!」


 「うん!」


 明日香と笑い合いながら荷物をまとめていると、不意に教室の扉が開いた。


 「茉梨(まつり)明日香さん、職員室までお願いします。」


 先生に名前を呼ばれた明日香は、小さく「はい」と返事をして立ち上がる。


 「ごめんね、少し待ってて!」


 「大丈夫。廊下で待ってるね。」


 私は鞄を肩に掛け、教室を出た。


 放課後の廊下には、部活動へ向かう生徒たちの話し声が響いている。


 窓から差し込む夕陽が床を橙色に染め、桜の花びらが風に揺れていた。


 何気なく顔を上げる。


 その瞬間。


 目が、合った。


 廊下の先。


 同じ制服を着た、一人の男の子。


 黒くさらりと流れる髪。


 整った横顔。


 そして、どこか寂しそうな瞳。


 ──動けない。


 まるで時間だけが止まったみたいに、私はその場に立ち尽くいていた。


 彼もまた、一歩も動かない。


 視線だけが静かに絡み合う。


 どうしてだろう。


 初めて会ったはずなのに。


 胸の奥が、少しだけ苦しくなる。



 初対面の人に向ける感情じゃない、と頭では分かっているのに。


 懐かしさとも違う、でも確かに「覚えがある」感覚が込み上げた。


 ……知らない、はずなのに。


 ——どこかで君を…。


 そう思った瞬間、頭の奥がひりっと痛んだ。


 記憶に触れかけて、すり抜ける感覚。


 「……」


 長い、長い数秒。


 先に目を逸らしたのは、彼だった。


 ふっと何かを諦めるように伏せられた瞳。


 けれど、その表情の奥には、隠しきれない動揺が滲んでいた。


 ぎゅっと握り締められた右手。


 力の入った拳が、一瞬だけ震える。


 彼は何も言わない。


  ——どこで会った?


 自分自身に問いかけても、返事はない。


 中学二年から三年のあいだ、私の記憶は深い霧に覆われたままだ。


 胸の痛みを手がかりにすれば、何か出てくる気がした。


 けれど浮かぶものはどれも輪郭が曖昧で、すぐに溶けてしまう。


 頭の奥が、じんと痛んだ。


 思い出せない。


 どんなに探しても、空白は空白のままだった。


 どうして。


 私。


 涙が出そうになってるんだろう。


 自分でも理由が分からないまま立ち尽くしていると、廊下の向こうから明るい声が響いた。


 「おーい! 月城!」


 「何やってんだよ慧〜(けい)」


 彼は肩を小さく震わせる。


 私から視線を外すと、そのまま振り返った。


 「早く来いよ!」


 男子生徒たちが笑いながら手を振っている。


 彼は何も答えず、小さくうなずくだけだった。


 そして、まるで何かから逃げるように足早に歩き出す。


 彼が入っていった教室の扉には、大きくこう書かれていた。


 ──一年二組。


 扉が静かに閉まる。


 私はその文字を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 廊下には、さっきまでの賑やかな話し声が戻っている。


 それなのに。


 私の心臓だけが、取り残されたみたいに速く鼓動を打っていた。


 月城くん。


 どこかで——確かに、どこかで会ったことがある。


 思い出しかけて、届かないこのもどかしい感じ。


 すごく嫌だ。


 どうして、あの人を見ただけで胸が苦しくなるんだろう。


 どうして、あんなにも悲しそうな目が、頭から離れないんだろう。


 春風が吹き抜ける。


 舞い上がった桜の花びらが、二組の教室の前を静かに横切っていった。
< 5 / 8 >

この作品をシェア

pagetop