記憶の欠片

水底に眠る記憶

 あの日から、いくつかの日が過ぎた。


 新しい教室にも少しずつ慣れ、気づけば明日香と笑い合う時間も増えていた。


 「愛梨、今日寄り道しない?」


 放課後。


 帰り支度をしていると、明日香が少し得意げに笑う。


 「すっごく綺麗なカフェがあるの。絶対、愛梨好きだと思う!」


 「ほんと? 行きたい!」


 二人は電車に揺られ、学校から二駅先の小さな街へ降り立った。


 駅前の賑わいを抜け、細い路地裏へ入る。


 レンガ造りの建物が並ぶ静かな通り。


 その奥に、地下へ続く石階段があった。


 「ここだよ」


 明日香がそう言って、黒い鉄の扉に手を掛ける。


 重たい音を立てて扉がゆっくり開く。


 その瞬間。


 視界が、一面の青に染まった。


 思わず息を呑む。


 店内を囲むように並ぶ大きな水槽。


 ゆらゆらと揺れる青い光が壁や天井に映り込み、まるで海の底へ迷い込んだみたいだった。


 色鮮やかな熱帯魚が静かに泳ぎ、クラゲは淡い光をまといながら、ゆっくりと漂っている。


 天井から零れる水面の反射が、まるで夜空の星みたいに揺れていた。


 「綺麗……」


 私が呟くと、明日香は嬉しそうに笑った。


 「でしょ? 愛梨なら絶対気に入ると思ったんだ」


 その笑顔につられて私も笑う。


 私たちはカウンター席へ腰を下ろした。


 目の前の大きな水槽では、小さな熱帯魚たちがゆったりと泳いでいる。


 青い光がカウンターに揺れて、カフェラテの表面まで淡く染めていた。


 「何にする?」


 「私はカフェラテ!」


 「じゃあ私も同じのにしよっと」


 注文を済ませると、私は席を立つ。


 「ちょっとお手洗い行ってくるね」


 「はーい」


 店内の奥へ続く通路を歩いていると。


 角を曲がった瞬間だった。


 「っ!」


 どん、と誰かの肩に軽くぶつかる。


 「す、すみません!」


 反射的に頭を下げる。


 相手も足を止めた。


 「いや、大丈夫。」


 落ち着いた低い声。


 背の高い店員さんだった。


 店内は照明が落とされ、水槽の青い光だけがぼんやりと辺りを照らしている。


 逆光になったその人の顔は影に隠れ、表情まではよく見えなかった。


 もう一度軽く頭を下げ、私はそのまま通り過ぎる。


 店員も一瞬だけ私の背中を見送るが、何事もなかったように歩き出した。


 私はトイレへ入り、鏡の前に立つ。


 「前髪……大丈夫かな」


 軽く櫛で整え、制服の襟元を直す。


 「よし」


 小さく頷いて席へ戻る。


 すると、さっきぶつかった店員さんがカウンターの中へ入り、カフェラテを丁寧に淹れていた。


 長い指先でカップを持ち上げ、静かにミルクを注いでいく。


 青い光を受けた横顔は、どこか絵になるほど綺麗だった。


「……店員さん。」


 思わず小さく声が漏れた。


 その声が聞こえたのか、彼は手を止めてこちらを見た。


 目が合う。


 ふっと口元を緩めて、優しく笑った。


 「どうかした?」


 「あ、いえ……」


 慌てて首を横に振る。


 すると彼は、私の制服へ視線を移した。


 「その制服」


 少しだけ目を細める。

 「俺の高校と同じだ」

 「え?」


 思わず顔を上げる。


 「何年生?」


 「一年です」


 「ほんと?」


 彼は少し嬉しそうに笑う。


 「俺も一年」


 「そうなんですか!」


 なんだか急に親近感が湧いてくる。


 「クラスは?」


 「一組です」


 「俺は二組」


 二組。


 その言葉を聞いた瞬間。


 ふと、一人の男の子の姿が頭をよぎった。


 放課後。


 廊下の先で目が合った、あの人。


 切なそうに目を逸らし、何も言わず二組へ入っていった男の子。


 ──月城くんも、二組だった。


 あの人と、この店員さんは同じクラスなんだ。


 そんな偶然に少し驚きながら、私はもう一度彼の顔を見つめた。


 けれど彼は、その視線の意味を知ることもなく、穏やかな笑みを浮かべていた。


「そうだ」


 彼はカップをカウンターへ置くと、ふと思い出したように笑った。


 「名前、聞いてもいい?」


 「あ、はい!」


 私は姿勢を正す。


 「黒瀬愛梨です」


 隣で明日香も小さく頭を下げた。


 「茉梨明日香です」


 その瞬間だった。


 彼の表情が、ほんのわずかに変わる。


 「……黒瀬、愛梨?」


 小さく繰り返された私の名前。


 その瞳が一瞬だけ揺れ、何かを思い出そうとするように宙を見つめる。


 けれど、それはほんの数秒。


 彼はすぐにいつもの穏やかな笑顔へ戻った。


 「ごめん」


 少し照れたように笑う。


 「どこかで聞いたことがある名前な気がして」


 私は首をかしげる。


 「そうなんですか?」


 「……気のせいだったかも」


 そう言って、小さく肩をすくめた。


 「改めて」


 彼は優しく微笑む。


 「俺は、風早湊音(かぜはやみなと)」


 差し込む青い光が、その笑顔を静かに照らしていた。


 「よろしく」


 「よろしくお願いします!」


 私も思わず笑顔になる。


 その時の私は、まだ知らなかった。


 風早湊音という名前が、私の止まっていた時間と、深く結びついていることを。
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