Dear Darling

第3章 知らない7年

 病室に静けさが戻る。

 聞こえてくるのは、遠くで誰かを呼ぶ看護師の声と、規則正しく流れる空調の音だけだった。

 ひまりはベッドへ腰を下ろし、枕元に置かれたスマートフォンを手に取る。

 もう一度、待ち受け画面を開いた。

 満開の桜の下。

 笑顔の自分。

 その隣には、一人の男性が立っている。

 穏やかな笑みを浮かべたその人を、ひまりはしばらく見つめた。

 昨日、病室で会った人。

 優しく名前を呼んでくれた人。

 そして、私の――。

 そこまで考えたところで、胸の奥が苦しくなった。

 ゆっくりと視線を左手へ落とす。

 薬指には、細いプラチナの指輪。

 そっと指先で触れる。

 冷たい感触が、現実を静かに伝えてくる。

「……ほんとに。」

 小さく息をついた。

「結婚してるんだ……。」

 画面を消そうとして、指が止まる。

 知らない。

 何も知らない。

 でも、このスマートフォンの中には、きっと今の私がいる。

 見るのが怖い。

 もし、本当に私がこの人と結婚していたら。

 もし、幸せだったとしたら。

 その七年間を、私は全部忘れてしまったことになる。

 唇をきゅっと結ぶ。

 恐る恐る画面を指でなぞった。

 ロックは解除された。

「……え?」

 思わず声が漏れる。

 顔認証だった。

 画面いっぱいに、色とりどりのアプリが並んでいる。

 見覚えのないものもあれば、知っているものもある。

 その中で、写真のアイコンが目に留まった。

 開こうとして、また指が止まる。

 怖い。

 そこには、知らない私がいる。

 知らない毎日がある。

 知らない笑顔がある。

 その全部を見てしまったら、十七歳の私が消えてしまうような気がした。

 スマートフォンを胸に抱き寄せる。

「……ごめん。」

 誰に向かって謝ったのか、自分でも分からなかった。

 写真の中の私へなのか。

 昨日会ったあの人へなのか。

 それとも、この七年間を生きてきた自分自身へなのか。

 コンコン。

 不意にノックの音が響く。

 ひまりは慌ててスマートフォンの画面を閉じた。

「入るよ。」

 聞き慣れ始めた、あの優しい声だった。
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