Dear Darling

第2章 覚悟

看護師が優しく微笑んだ。

「藤堂さん、お部屋へ戻りましょう。」

ひまりは小さく頷く。

診察室を出る前、一度だけ足を止めた。

静かに立つ蓮へ視線を向ける。

「……失礼します。」

礼儀正しく小さく頭を下げると、そのまま看護師の後を歩いていった。

その姿が廊下の向こうへ消えるまで、蓮は何も言えなかった。

昨日まで当たり前だった「おかえり」も、「ただいま」もない。

あの会釈は、初対面の年上の男性へ向ける礼儀だった。

「藤堂さん。」

医師の声に我に返る。

「少し、お時間よろしいでしょうか。」

「……はい。」

蓮は一礼し、医師の向かいへ腰を下ろした。

診察室には静かな空気が流れている。

医師はカルテを閉じ、ゆっくりと口を開いた。

「検査の結果ですが、脳に大きな損傷は認められません。」

蓮は黙って頷く。

「現在確認できている限りでは、ひまりさんの記憶は高校二年生頃で止まっています。」

「……はい。」

「事故による影響だけでなく、精神的な要因が関係している可能性もありますが、現時点で断定はできません。」

「今後の経過を見ながら、慎重に判断していく必要があります。」

蓮は静かに息を吐いた。

「ひまりは……不安ですよね。」

医師は穏やかに頷く。

「ええ。」

「七年間の記憶がなくなったというより、ご本人にとっては、突然七年後の世界に来てしまった感覚でしょう。」

「焦らせず、安心できる環境を作ってあげてください。」

「無理に思い出させようとする必要はありません。」

「分かりました。」

蓮は深く頭を下げた。

話は終わった。

席を立ち、ドアノブへ手を伸ばす。

しかし、その手が止まった。

「先生。」

振り返る。

「ありがとうございました。」

医師は少し驚いたように顔を上げた。

蓮は静かに頭を下げる。

「ひまりの命を助けていただいて、本当にありがとうございました。」

しばらく沈黙が流れた。

医師は穏やかに微笑む。

「助かったのは、私たちだけの力ではありません。」

蓮は顔を上げる。

「ひまりさん自身が、生きようと頑張った結果です。」

「私たちは、その力を少しだけお手伝いしたに過ぎません。」

蓮は静かに頷いた。

「……そうですね。」

医師は続ける。

「だからこれからは、藤堂さんがひまりさんを支えてあげてください。」

「……はい。」

蓮は深く頭を下げ、診察室を後にした。

病室へ向かう廊下。

歩みは自然とゆっくりになる。

病室の前で立ち止まり、小さな窓から中を覗く。

窓際の椅子に座るひまりは、春風に揺れる白いカーテンをぼんやりと見つめていた。

その横顔は、どこか幼く見える。

高校二年生のひまり。

蓮だけが知る、二十四歳のひまりではない。

胸の奥が痛む。

――大丈夫。

心の中でそっと呟く。

握り締めた右手が、自然と左手の薬指に触れた。

指先に伝わる、細いプラチナの感触。

二人で選んだ結婚指輪。

もう一度、小さく息を吐く。

――大丈夫。

不安なのは、ひまりだ。

俺まで立ち止まるわけにはいかない。

蓮は静かに表情を整え、病室の扉を開けた。
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