王太子様は甘い言葉が囁けない!
第6話「しばらく来ないでくれ」
「お母さま!」
休日を終えて家へ帰ったリリアは、玄関に置かれた大きな旅行鞄を見つけ、思わず声を上げた。
奥の部屋から現れたのは、日に焼けた母・ロザリアだった。
「リリア、ただいま」
にこりと笑うその姿は、どこか以前より凛々しい。
「お母さま……随分と逞しくなられましたね」
「そうなの!」
ロザリアは胸を張る。
「女の一人旅は危険だから、強くならないとね!」
「ロザリア様、素晴らしいです!」
隣でマルタがぱちぱちと拍手する。
父が亡くなり爵位を返上したあの日。
「好きなことをして生きよう」
そう決めたのはリリアだけではなかった。
母もまた、長年憧れていた旅に出る人生を選んだのだ。
「そうそう!」
ロザリアが思い出したようにリリアを見る。
「マルタから聞いたわよ?」
「え?」
「リリアってば、王太子殿下の先生をしてるんですって?」
「あー……まぁね」
「殿下って文武両道って聞いていたけど、何を教えているの?」
少し考えた末、リリアは答える。
「……恋愛」
「は?」
「だから……恋愛」
「恋愛って、恋とか愛とかの恋愛?」
「間違いない。その恋愛」
ロザリアは目を丸くしたまま固まった。
「恋愛経験ゼロのあなたが教えていいの!?」
「まさか王族の方々を騙してるんじゃないでしょうね!?」
「騙してません!」
リリアは慌てて首を振る。
「私だって最初は、本に囲まれる時間が減って嫌だったんだから!」
「ふぅん?」
ロザリアは意味ありげに笑う。
「今は嫌じゃないのね?」
「え?」
その問いに、リリアは思わず言葉を失った。
(そう……。)
(今は嫌じゃない。)
(むしろ……。)
(明日もアルベール様に会えることが……。)
(少し楽しみ。)
その考えに、自分で驚く。
頬が熱くなる。
その様子を見たロザリアとマルタは顔を見合わせ、くすりと笑った。
「も、もう寝ます!」
真っ赤になったリリアは逃げるように自室へ駆け込む。
「ふふ。」
「あらあら。」
「からかいすぎちゃったかしら」
ロザリアは楽しそうに笑っていた。
◇◇◇
翌朝。
(お母さまが変なことを言うから……。)
王宮へ向かう道を歩きながら、リリアは何度も首を振る。
(無駄に意識しちゃうじゃない。)
「あーもう!」
誰もいない道で思わず声が出る。
「アルベール様とは、ただの先生と生徒!」
「アルベール様が甘い台詞を言えるようになれば、私は司書補佐に戻る!」
「二十歳になったら、たくさん届く求婚状の中から誰かを選んでお嫁に行く!」
「それが私の人生設計なんだから!」
「それじゃ。」
突然、背後から声がした。
「今のうちにリリアちゃんへ求婚状を送っておかないとなぁ」
「えぇっ!?」
飛び上がるように振り返る。
「シグルド様!?」
「いつから聞いてたんですか!?」
「うーん。」
シグルドは悪びれもせず笑う。
「結構最初からかな?」
「もう!」
「それでさ。」
シグルドは軽い調子で続ける。
「今のうちに求婚状を出しておけば、四年後には俺たち結婚できるってことだよね?」
「それは……。」
「俺、こう見えて公爵家の嫡男なんだ。」
「え?」
「条件は悪くないと思うんだけど?」
にっと笑う。
「リリアちゃんが今約束してくれれば、俺もあと四年は自由に遊べるし。」
「お互いウィンウィンじゃない?」
リリアは大きくため息をついた。
「シグルド様。」
「ん?」
「いい加減にしてください。」
「指南の時間に遅れてしまいますので、失礼します」
「ははっ!」
笑いながら手を振るシグルド。
その陰から、一人の青年が静かに姿を消したことに、二人は気付かなかった。
◇◇◇
いつもなら十五分前には到着するリリア。
今日はまだ来ない。
気になって迎えに出たアルベールは、偶然二人の会話を聞いてしまった。
『四年後には結婚できる。』
『約束してくれれば。』
その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。
胸の奥が、妙に重かった。
(……何だ。)
(この感覚は。)
答えは分からない。
ただ。
考えるたびに、苦しくなる。
◇◇◇
アルベールの私室。
少し遅れて到着したリリアは、いつもの笑顔で一礼した。
「あ! アルベール様、お待たせしました。」
「今日も全力で指南いたしますね!」
「……」
返事がない。
「アルベール様?」
アルベールは窓の外を見たまま、小さく言った。
「しばらく。」
長い沈黙。
「指南は必要ない。」
「……え?」
リリアは目を瞬かせる。
「私……何かお気に召さないことをしてしまいましたか?」
「リリアは何もしていない。」
「では、どうして……?」
アルベールは拳を握りしめる。
「分からない。」
その声は、今にも消えそうだった。
「……分からないから。」
「しばらく来ないでくれ。」
リリアの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
理由は教えてもらえない。
怒られたわけでもない。
それなのに、その言葉は今までで一番痛かった。
「……わかりました。」
小さく頭を下げる。
「失礼いたします。」
部屋を出た扉の向こうで、リリアは静かに唇を噛んだ。
(どうして……。)
(私、何を間違えたの……?)
閉じた扉を見つめたまま、アルベールは動けなかった。
『四年後には結婚。』
その言葉だけが、何度も胸を締め付ける。
「……苦しい。」
ぽつりと漏れたその呟きの意味を、まだ彼自身も知らなかった。