キミが家族になった、その日から。
隣にいる理由
──母の葬儀から三週間。
冬の冷たい風は少しだけやわらぎ、街には春の気配が漂い始めていた。それでも夏音の時間だけは、あの日から止まったままだった。
──朝、目が覚めても“おはよう”と言ってくれる母はいない。
学校へ行く準備をしていても、“ハンカチ持った?”と声をかけてくれる人もいない。
──当たり前だった日常が、静かに消えていた。
ある朝──
制服に着替えた夏音が階段を下りると、キッチンから味噌汁の香りがした。
「……おはよう。」
エプロン姿の涼が振り返る。
「おはよう。」
テーブルには、焼き魚と味噌汁、それに卵焼き。
「え……これ。」
「作った」
「涼が?」
「父さんだけじゃ朝は回らないから。」
───ぶっきらぼうに言いながら、ご飯をよそう。
夏音は黙って席についた。
一口食べる。
どこか母の味に似ていて、涙がこぼれそうになる。
「……おいしい。」
「よかった」
それだけ言うと、涼は安心したように小さく息を吐いた。
学校では相変わらず他人のまま。でも帰り道になると、校門の外には必ず涼が立っている。
「帰るぞ」
「待っててくれたの?」
「たまたま」
そう言うくせに、毎日そこにいる。スーパーへ寄れば、重い荷物を自然と持ってくれる。
信号ではさりげなく歩く速度を合わせてくれる。
何も言わない。でも、その優しさだけは確かだった。
──ある夜。
眠れなくなった夏音は、母の部屋の前で立ち止まった。ドアを開けると、母が大切にしていたアルバムが目に入る。
ページをめくるたび、幼い頃の写真が並んでいた。
運動会、海、誕生日。どの写真にも、母は笑っていた。
「……会いたい。」
涙が写真の上に落ちる。そのとき、背後で静かにドアが開いた。
「夏音…」
涼だった。
「眠れないのか?」
夏音は黙って頷く。涼は何も聞かず、隣へ座った。
二人でアルバムを見つめる。
「この写真。」
涼が一枚の写真を指さした。
「泥だらけになって泣いてる。」
「もう……見ないでよ」
夏音が少しだけ笑う。
「母さん、そのあと『いっぱい泣いたぶんだけ、また笑えばいい』って言ってた。」
───その言葉を聞いた瞬間、夏音は思い出した。
母が何度も言ってくれた言葉だった。
「……忘れてた。」
「忘れてない」
涼は静かに首を振る。
「思い出せなかっただけだ。」
──沈黙が流れる。
窓の外では春の雨が降っていた。
「涼……っ」
「ん?」
「ありがとう。」
「……何が」
「隣にいてくれて」
涼は少し照れたように笑う。
「約束したから。」
「約束?」
「あの日…」
「一人じゃないって。」
夏音は涙をぬぐい、小さく笑った。
「そっか。」
この人がいる。
だから、少しずつ前を向ける。母を忘れたわけじゃない。悲しみが消えたわけでもない。
───それでも、隣にいてくれる人がいるから、今日も笑おうと思えた。
その夜、夏音は初めて穏やかな気持ちで眠りについた。そして涼は、自分でも気づかないうちに、夏音の笑顔が戻ることを誰よりも願うようになっていた。