冷徹営業トップは私の限界オタクでした
しかし、白石の意地悪はそれでは終わらなかった。
昼前、陽菜子が化粧室で手を洗っていると、隣に立った白石が濡れた手を勢いよく振った。
水滴が陽菜子の顔とブラウスに飛び散る。
「あっ…」
「ごめんなさい。手が滑ってしまって。」
白石は陽菜子を見ずに鏡を見て自分の髪を直しながら言い、化粧室を出て行った。
濡れたブラウスをハンカチで拭きながら、陽菜子は白石が出て行った扉を見つめた。
コーヒーも、今の水も、ただの偶然かもしれない。
けれど―― 。
(私、何か白石さんを怒らせるようなことしたかな…)
陽菜子は小さな違和感を覚えた。
お昼、陽菜子はいつものように同僚の恵美と社員食堂で食事をしていた。
少し離れた席では、寺内が営業部の社員たちと昼食をとっていた。陽菜子と目が合うと、寺内は軽く手を上げて笑った。
「今日、神崎さんいないんだね。あの顔、拝みたかったなぁ。」
恵美が残念そうに、親子丼を口に運びながら言った。
「もう。恵美ったら、結婚して子供もいる人がそんな発言していいの?」
陽菜子はくすくすと笑う。
「だって、神崎さんってすごくスタイルいいし、顔もいいし、目の保養だよ〜。」
「ふふっ、そうかもしれないね。」
その時、社員食堂の入り口が開いた。
外回りから戻ってきたらしい神崎が、営業部の社員と話しながら入ってきた。陽菜子は気づかなかったが、神崎は食堂へ入るなり、真っ先に陽菜子の姿を見つけていた。
そこへ、カレーと水の入ったコップを載せたお盆を持った白石が、陽菜子の正面から歩いてきた。
白石が陽菜子のテーブルの近くまで来た、その瞬間だった。
不自然に足をもつれさせ、お盆が大きく傾く。
「あっ」
コップが倒れ、中の水が陽菜子の頭から降りかかった。
床へ落ちたカレーが足元で跳ね、陽菜子のズボンにも茶色い染みが広がる。
「冷たっ…熱い」
「陽菜子!大丈夫!?」
恵美は慌てて立ち上がった。
椅子が床をこする大きな音に気づき、寺内もすぐに席を立った。
「春宮ちゃん、大丈夫?」
寺内は陽菜子のもとへ駆け寄り、後ろから自分のジャケットを彼女の肩にかけた。
「きゃあ。春宮さんごめんなさい!わざとじゃないの。」
白石は驚いたように口元を押さえていたが、その手の陰では、かすかに笑っていた。
その表情を見た寺内から、いつもの笑顔が消える。
「白石ちゃん。今、わざとやったよね? 」
「…わ、私、わざとなんか…」
白石は寺内の視線から逃れるように、一歩後ずさった。
その背中が、誰かの胸元へぶつかる。
神崎が、すぐ後ろに立っていた。
神崎は床に散らばったカレーと、濡れた陽菜子の姿を見た。
「白石さん……説明してください。」
「ち、違います。私はただ、転んで……」
白石は今までに見たことのないほど冷たい表情をする神崎と目を合わせられなかった 。
白石が言い訳を始めるより先に、神崎の視線は陽菜子へ向いた。
濡れた髪。汚れた服。床に落ちたカレー。
神崎は白石を追及することも忘れ、陽菜子のもとへ駆け寄った。
「春宮さん、大丈夫ですか……!」
神崎は陽菜子の肩にかけられていた寺内のジャケットへ視線を落とした。
一瞬だけ、神崎の眉間に深いしわが寄る。
「……寺内さん、ありがとうございます」
低い声でそう告げると、神崎は陽菜子の肩から寺内のジャケットをそっと外した。
代わりに、自分のジャケットを陽菜子へかける。

「こちらを使ってください」
神崎は寺内を見ずにジャケットを突き返した。
「はいはい。」
寺内は呆れたようにジャケットを受け取った。
「春宮さん、こちらへ来てください。休養室へ行きましょう」
陽菜子の肩と腕へ優しく手を添え、陽菜子を休養室へ連れていった。
立ち去る直前、神崎は寺内へ短く視線を向けた。
寺内はその意図を察したように、わずかにうなずく。
その背後で、逃げようとした白石へ寺内が声をかけた。
「白石ちゃん。話はまだ終わってないからね」