冷徹営業トップは私の限界オタクでした
カーテンの隙間から差し込む朝日で、神崎は目を覚ました。
身体を起こすと、自分がベッドの横の床へ座り込んだまま眠っていたことに気づく。
肩には、見覚えのない薄い毛布が掛けられていた。
おそらく、先に目を覚ました陽菜子が掛けてくれたのだろう。
「……朝?」
神崎は勢いよく起き上がり、ベッドを確認した。
陽菜子の姿はない。
代わりに、キッチンの方からジュウジュウと何かを焼く音が聞こえてきた。
神崎は恐る恐るキッチンへ向かう。
そこには、部屋着の上からエプロンをつけ、朝食を作っている陽菜子の姿があった。
無防備な部屋着姿。
緩くまとめられた茶色の髪。
朝の光の中で料理をする陽菜子。
神崎は鼻血が出そうになり、慌てて片手で鼻を覆った。
「あ、ちくわくん。おはようございます!」
陽菜子が振り返り、いつもの柔らかな笑顔を向ける。

「昨日はご迷惑をおかけしたみたいで、すみません。朝ごはん、もうすぐできるので、座って待っていてください!」
「は、はい……」
神崎は言われるがまま、ダイニングチェアへ腰を下ろした。
これは夢なのではないか。
陽菜子の家で目を覚まし、部屋着姿の陽菜子が朝食を作ってくれている。
現実とは思えない。
神崎は自分の頬をつねった。
(……痛い)
夢ではなかった。
しばらくすると、陽菜子がトーストと目玉焼き、サラダ、ヨーグルトを二人分テーブルへ並べた。
「どうぞ、召し上がってください。」
「い、いただきます。」
神崎は緊張した面持ちで、トーストへ手を伸ばした。
陽菜子が作った朝食。
噛みしめるたびに、胸の奥へ感動が押し寄せる。
(陽菜子さんの手料理……。今日が命日でも悔いはない……いや、もっと食べたいので生きる)
二人が朝食を半分ほど食べた頃、陽菜子が立ち上がり、コーヒーを淹れた。
神崎の前へカップを置くと、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ちくわくん。昨日はかなり酔ってしまったみたいですね。本当にご迷惑をおかけしました」
「いえいえ! 大丈夫ですよ」
神崎は両手を振って答えた。
昨夜、自分の背中へ抱きつかれたことも、手を握られたことも、口に出すつもりはなかった。
言えば陽菜子が恥ずかしがるかもしれない。
それに、神崎自身の心臓も耐えられそうになかった。
神崎はコーヒーを一口飲み、壁に並ぶ写真へ視線を向けた。
「部屋中、ちくわくんの写真でいっぱいですね」
「はい。大切な家族なので」
陽菜子は笑ったが、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「小学校五年生の頃から、十六年間ずっと一緒だったんです」
「十六年間……」
写真の中には、小学生らしい幼い陽菜子もいれば、制服姿の陽菜子もいる。
ちくわくんは、陽菜子の成長をずっとそばで見守ってきたのだろう。
神崎は足元へ視線を落とした。
犬用の食器も、ベッドも、どこにも見当たらない。
昨夜、涙を流しながら自分を呼び止めた陽菜子の姿が、脳裏によみがえった。
「あの……ちくわくんは、今どこにいるんですか?」
神崎が尋ねると、陽菜子の指がコーヒーカップの上で止まった。
しばらく沈黙したあと、陽菜子はカップを両手で包み込み、ゆっくりと目を伏せた。
「ちくわくんは、二年前に亡くなったんです」
神崎は息を呑んだ。
「私にとって、ちくわくんはただのペットではなくて……家族だったんです。つらいときも、寂しいときも、いつもそばにいてくれました。」
陽菜子は壁に飾られた一枚の写真を見つめた。
写真の中では、陽菜子が大きなちくわくんへ抱きつき、幸せそうに笑っている。
「ずっと一緒にいるのが当たり前だったので、いなくなってから家に帰るのが少しつらくなってしまって。」
陽菜子は困ったように笑った。
「家に帰っても、玄関まで迎えに来てくれる子がいないんだって思い知らされるので……。仕事をしている方が、気が紛れたんです。」
その言葉を聞いた瞬間、神崎の脳裏に、二年前の光景がよみがえった。
夜の静かな廊下。
目元を押さえながら、女子トイレへ駆け込んでいった陽菜子。
扉の向こうから聞こえていた、押し殺した泣き声。
あの頃から、陽菜子は愛犬を失った寂しさを、一人で抱えていたのだ。
そして、神崎が初めて差し入れを置いたのも、ちょうどその頃だった。
「話してくださって、ありがとうございます。」
神崎は静かに頭を下げた。
慰めの言葉を簡単に口にすることはできなかった。
十六年間を共に過ごした家族を失った悲しみを、自分が理解したように語ることなどできない。
神崎は壁に並ぶ写真を見つめた。
赤茶色の毛並み。
鋭く見える目元。
大きな口。
けれど、陽菜子を見つめる表情は、どの写真でも穏やかで優しい。
公園で初めて会った夜。
陽菜子は明るい部屋の中で神崎の顔を見るなり、迷いなくその名前を口にした。
ただ犬に似ていたから、変わったあだ名をつけられたのだと思っていた。
けれど、違った。
陽菜子は神崎の中に、もう二度と会えない大切な家族の面影を見つけたのだ。
「だから、俺を……ちくわくんと呼んだんですね。」
陽菜子は少し驚いたように瞬きをした。
それから写真の中のちくわくんへ目を向け、寂しそうに微笑んだ。
「神崎さんを初めて見たとき、本当にびっくりしたんです。」
「そんなに似ていますか?」
「はい。髪の色も、目元も、笑ったときの口元もそっくりで。」
陽菜子は神崎の顔を見つめた。
「ちくわくんが、人間になって戻ってきたみたいに見えました。」
神崎の胸が、強く締めつけられた。
「だから、つい呼んでしまったんだと思います。」
陽菜子はコーヒーカップへ目を落とした。
「また会えたような気がしたのかもしれません。」
神崎は何も答えられなかった。
陽菜子だけが呼んでくれる、特別な名前。
これまでは、その名前を呼んでもらえるだけで、ただ嬉しかった。
しかし、その名前は陽菜子が十六年間愛し続け、今も忘れられずにいる大切な家族の名前だった。
神崎は壁の写真へ、静かに頭を下げた。
陽菜子が自分を『ちくわくん』と呼ぶ声が、昨日までとは違う重みを持って、胸の奥へ深く残った。
身体を起こすと、自分がベッドの横の床へ座り込んだまま眠っていたことに気づく。
肩には、見覚えのない薄い毛布が掛けられていた。
おそらく、先に目を覚ました陽菜子が掛けてくれたのだろう。
「……朝?」
神崎は勢いよく起き上がり、ベッドを確認した。
陽菜子の姿はない。
代わりに、キッチンの方からジュウジュウと何かを焼く音が聞こえてきた。
神崎は恐る恐るキッチンへ向かう。
そこには、部屋着の上からエプロンをつけ、朝食を作っている陽菜子の姿があった。
無防備な部屋着姿。
緩くまとめられた茶色の髪。
朝の光の中で料理をする陽菜子。
神崎は鼻血が出そうになり、慌てて片手で鼻を覆った。
「あ、ちくわくん。おはようございます!」
陽菜子が振り返り、いつもの柔らかな笑顔を向ける。

「昨日はご迷惑をおかけしたみたいで、すみません。朝ごはん、もうすぐできるので、座って待っていてください!」
「は、はい……」
神崎は言われるがまま、ダイニングチェアへ腰を下ろした。
これは夢なのではないか。
陽菜子の家で目を覚まし、部屋着姿の陽菜子が朝食を作ってくれている。
現実とは思えない。
神崎は自分の頬をつねった。
(……痛い)
夢ではなかった。
しばらくすると、陽菜子がトーストと目玉焼き、サラダ、ヨーグルトを二人分テーブルへ並べた。
「どうぞ、召し上がってください。」
「い、いただきます。」
神崎は緊張した面持ちで、トーストへ手を伸ばした。
陽菜子が作った朝食。
噛みしめるたびに、胸の奥へ感動が押し寄せる。
(陽菜子さんの手料理……。今日が命日でも悔いはない……いや、もっと食べたいので生きる)
二人が朝食を半分ほど食べた頃、陽菜子が立ち上がり、コーヒーを淹れた。
神崎の前へカップを置くと、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ちくわくん。昨日はかなり酔ってしまったみたいですね。本当にご迷惑をおかけしました」
「いえいえ! 大丈夫ですよ」
神崎は両手を振って答えた。
昨夜、自分の背中へ抱きつかれたことも、手を握られたことも、口に出すつもりはなかった。
言えば陽菜子が恥ずかしがるかもしれない。
それに、神崎自身の心臓も耐えられそうになかった。
神崎はコーヒーを一口飲み、壁に並ぶ写真へ視線を向けた。
「部屋中、ちくわくんの写真でいっぱいですね」
「はい。大切な家族なので」
陽菜子は笑ったが、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「小学校五年生の頃から、十六年間ずっと一緒だったんです」
「十六年間……」
写真の中には、小学生らしい幼い陽菜子もいれば、制服姿の陽菜子もいる。
ちくわくんは、陽菜子の成長をずっとそばで見守ってきたのだろう。
神崎は足元へ視線を落とした。
犬用の食器も、ベッドも、どこにも見当たらない。
昨夜、涙を流しながら自分を呼び止めた陽菜子の姿が、脳裏によみがえった。
「あの……ちくわくんは、今どこにいるんですか?」
神崎が尋ねると、陽菜子の指がコーヒーカップの上で止まった。
しばらく沈黙したあと、陽菜子はカップを両手で包み込み、ゆっくりと目を伏せた。
「ちくわくんは、二年前に亡くなったんです」
神崎は息を呑んだ。
「私にとって、ちくわくんはただのペットではなくて……家族だったんです。つらいときも、寂しいときも、いつもそばにいてくれました。」
陽菜子は壁に飾られた一枚の写真を見つめた。
写真の中では、陽菜子が大きなちくわくんへ抱きつき、幸せそうに笑っている。
「ずっと一緒にいるのが当たり前だったので、いなくなってから家に帰るのが少しつらくなってしまって。」
陽菜子は困ったように笑った。
「家に帰っても、玄関まで迎えに来てくれる子がいないんだって思い知らされるので……。仕事をしている方が、気が紛れたんです。」
その言葉を聞いた瞬間、神崎の脳裏に、二年前の光景がよみがえった。
夜の静かな廊下。
目元を押さえながら、女子トイレへ駆け込んでいった陽菜子。
扉の向こうから聞こえていた、押し殺した泣き声。
あの頃から、陽菜子は愛犬を失った寂しさを、一人で抱えていたのだ。
そして、神崎が初めて差し入れを置いたのも、ちょうどその頃だった。
「話してくださって、ありがとうございます。」
神崎は静かに頭を下げた。
慰めの言葉を簡単に口にすることはできなかった。
十六年間を共に過ごした家族を失った悲しみを、自分が理解したように語ることなどできない。
神崎は壁に並ぶ写真を見つめた。
赤茶色の毛並み。
鋭く見える目元。
大きな口。
けれど、陽菜子を見つめる表情は、どの写真でも穏やかで優しい。
公園で初めて会った夜。
陽菜子は明るい部屋の中で神崎の顔を見るなり、迷いなくその名前を口にした。
ただ犬に似ていたから、変わったあだ名をつけられたのだと思っていた。
けれど、違った。
陽菜子は神崎の中に、もう二度と会えない大切な家族の面影を見つけたのだ。
「だから、俺を……ちくわくんと呼んだんですね。」
陽菜子は少し驚いたように瞬きをした。
それから写真の中のちくわくんへ目を向け、寂しそうに微笑んだ。
「神崎さんを初めて見たとき、本当にびっくりしたんです。」
「そんなに似ていますか?」
「はい。髪の色も、目元も、笑ったときの口元もそっくりで。」
陽菜子は神崎の顔を見つめた。
「ちくわくんが、人間になって戻ってきたみたいに見えました。」
神崎の胸が、強く締めつけられた。
「だから、つい呼んでしまったんだと思います。」
陽菜子はコーヒーカップへ目を落とした。
「また会えたような気がしたのかもしれません。」
神崎は何も答えられなかった。
陽菜子だけが呼んでくれる、特別な名前。
これまでは、その名前を呼んでもらえるだけで、ただ嬉しかった。
しかし、その名前は陽菜子が十六年間愛し続け、今も忘れられずにいる大切な家族の名前だった。
神崎は壁の写真へ、静かに頭を下げた。
陽菜子が自分を『ちくわくん』と呼ぶ声が、昨日までとは違う重みを持って、胸の奥へ深く残った。