冷徹営業トップは私の限界オタクでした

第23話「私、『推し』のままでは嫌になりました。 」

夜、陽菜子は神崎と待ち合わせをしているイタリアンバーへ着いた。
すでに神崎は到着しており、店の前で待っていた。
神崎はスーツではなく、黒を基調とした私服姿だった。
その姿を見た瞬間、陽菜子は足を止めた。

――あの日と同じだ。

公園で初めて出会った夜と、よく似た格好だった。
胸が、どくんと大きく鳴った。
昨日までなら、『ちくわくんに似てる』としか思わなかったはずなのに。
今夜は、神崎がひどく格好よく見えた。

「陽菜子さん。」

陽菜子に気づいた神崎が、柔らかな笑顔を浮かべる。

「こんばんは。お待ちしていました。」

「こんばんは……。」

陽菜子は小さく頭を下げた。
まともに顔を見ることができない。

(どうしよう……。昨日までは普通に話せてたのに。)

恋だと気づいただけで、こんなにも違って見えるなんて思わなかった。

「陽菜子さん?」

「な、なんでもないです!」

不思議そうに覗き込まれ、陽菜子は慌てて顔をそらした。

「と、とりあえず入りましょう!」

「はい。」

二人は店へ入った。
以前と同じカウンター席に並んで座る。
あの夜と同じ店。同じ席。
隣にいるのも、同じ神崎。
けれど、陽菜子の気持ちだけが、あのときとはまるで違っていた。

注文した飲み物が運ばれてくる。
陽菜子はグラスを両手で持ったまま、何度も神崎を横目で見た。
今日ここへ来たのは、伝えたいことがあったからだ。
けれど――。

「陽菜子さん」

「はいっ!」

突然呼ばれ、肩が跳ねた。
神崎は少し緊張したように陽菜子を見つめていた。

「昨日、お電話で……俺に伝えたいことがあるとおっしゃっていましたよね。」

「……はい。」

陽菜子はグラスへ視線を落とした。
言わなきゃ。
そう思うのに、寺内から言われた言葉が頭をよぎる。

――恋じゃん。

途端に頬が熱くなった。

「私……。」

神崎が息を呑む。
陽菜子は勇気を振り絞るように顔を上げた。

「ちくわくんのこと、ずっと考えてみたんです。」

「……はい。」

「会えないと寂しいし、一緒にご飯を食べたいし、もっとちくわくんのことを知りたいって思って……。」

神崎の目が少しずつ見開かれていく。

「それで……分かったんです。」

陽菜子は胸元へ手を当てた。
心臓が痛いほど鳴っている。
本当は、その先まで言いたかった。
好きだと。

けれど――。

どうしても、その言葉だけが喉につかえて出てこなかった。

「私も……ちくわくんのファンになったみたいです。」

「…………。」

神崎が固まった。
数秒の沈黙。

「……俺の?」

「はい。」

陽菜子は照れくさそうに笑う。

「ちくわくんが私を推してくれてるみたいに、私もちくわくんを推してるんだなって。」

神崎はゆっくりと口元を覆った。

「陽菜子さんが……俺のファン……。」

みるみるうちに耳まで赤くなっていく。

「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫ではありません……。」

神崎は片手で顔を覆ったまま俯いた。

「人生最推しから『ファンです』なんて言われて、平静でいられるわけが……。」

「ふふっ。」

いつもの神崎の反応に、陽菜子は思わず笑った。
けれど、胸の奥には、少しだけ引っかかるものが残っていた。
違う。
本当に伝えたかったことは、これじゃない。
自分は神崎の『ファン』になったわけではない。
もっと、違う。
神崎に特別な誰かができるのが嫌だった。
自分以外の女性と並んで歩くところなんて見たくなかった。
自分に向けてくれる笑顔を、ほかの誰かへ向けてほしくなかった。

――私は。

陽菜子はそっと神崎の横顔を見つめた。
この人に、私を見ていてほしい。

その後、二人はいつものように他愛のない話をした。
けれど、陽菜子の胸の奥には、言えなかった言葉がずっと残り続けていた。
店を出る頃には、夜もすっかり深くなっていた。

「今日はありがとうございました。」

神崎が嬉しそうに笑う。

「陽菜子さんが俺のファンだなんて……今日は一生忘れません。」

「……ちくわくん。」

「はい?」

陽菜子は少し迷ったあと、神崎を見上げた。

「少しだけ、寄り道してもいいですか?」

「もちろんです。」

「行きたいところがあるんです。」
< 45 / 56 >

この作品をシェア

pagetop