冷徹営業トップは私の限界オタクでした
第30話(最終話)「あなたはやっぱり私の限界オタクでした。」
玄関の扉が閉まった。
「……どうぞ。」
「……お邪魔します。」
神崎はやけに緊張した声で答えた。
一度来たことのある部屋のはずなのに。
今日はあのときとはまるで違う。
以前は、酔った陽菜子を送り届けただけだった。
けれど今日は。
恋人として、陽菜子に招かれてここにいる。
神崎は玄関で靴を脱ぎながら、何度も深く息を吐いていた。
「紅夜くん?」
「はい。」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。」
「……無理です。」
即答だった。
陽菜子は思わず笑う。
「前にも来たことあるじゃないですか。」
「先ほども申し上げましたが、状況が違います。」
神崎は真剣な顔で答えた。
「今は陽菜子さんの恋人として、この部屋に入っています。」
「……。」
改めて言われると、陽菜子まで恥ずかしくなる。
「と、とりあえず座っててください。飲み物持ってきますね。」
「はい。」
陽菜子は逃げるようにキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けながら、自分の頬へ手を当てる。
(……私も緊張してきた。)
さっきまでは、ただもっと一緒にいたいと思っただけだった。
けれど。
自分の部屋に恋人と二人きり。
そう意識した途端、急に恥ずかしくなってきた。
「紅夜くん、コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「陽菜子さんが淹れてくださるなら、なんでも。」
「なんでもが一番困るんです。」
「では、紅茶でお願いします。」
「はい。」
陽菜子は紅茶を淹れ、二つのカップを持ってリビングへ戻った。
神崎はソファに座っていた。
ただし。
背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上に置いている。
まるで取引先の応接室にでもいるようだった。
「紅夜くん。」
「はい。」
「もっと楽にしていいですよ?」
「十分楽にしています。」
「全然見えませんけど。」
陽菜子は笑いながら、その隣へ腰を下ろした。
その瞬間。
神崎の肩がびくっと跳ねる。
「……近かったですか?」
「いえ。」
「じゃあ、なんで固まったんですか?」
「陽菜子さんが隣に座ったので。」
「今日ずっと隣にいたじゃないですか。」
「ここは陽菜子さんの家です。」
「そんなに違います?」
「全然違います。」
真顔で言われ、陽菜子はまた笑ってしまった。
二人で紅茶を飲みながら、今日の水族館の話をする。
クラゲが綺麗だったこと。
神崎が水槽ではなく陽菜子ばかり見ていたこと。
次はどこへ行こうかという話。
話しているうちに、先ほどまでの緊張は少しずつ薄れていった。
けれど。
カップが空になっても。
二人とも立ち上がろうとはしなかった。
陽菜子は隣にいる神崎を見る。
「……紅夜くん。」
「はい。」
「今日、来てくれてありがとうございます。」
「こちらこそ、誘っていただけて嬉しかったです。」
神崎は柔らかく笑った。
「本当は俺も、まだ帰りたくなかったので。」
陽菜子の胸が、どくんと鳴る。
「……同じですね。」
「はい。」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
静かな部屋に、時計の音だけが響く。
陽菜子は自分の膝の上へ視線を落とした。
神崎ともっと一緒にいたいと思った。
手をつないでみたいと思った。
抱きしめてみたいと思った。
少しずつ。
少しずつ。
神崎との距離が近くなっている。
それが嬉しい。
陽菜子はそっと顔を上げた。
すると。
神崎もこちらを見ていた。
視線が重なる。
「……紅夜くん?」
「…………。」
いつもなら何か言ってくれる神崎が、今日は黙ったままだった。
その視線が、いつもと少し違う。
陽菜子の胸が大きく鳴る。
神崎がゆっくりと身体をこちらへ向けた。
「陽菜子さん。」
「……はい。」
「一つ、お願いしてもいいですか?」
「なんですか?」
神崎は一度、視線を伏せた。
そして。
覚悟を決めたように、もう一度陽菜子を見つめる。
「……キスしても、いいですか?」
「…………。」
陽菜子の思考が止まった。
顔が一気に熱くなる。
「キ、キス……。」
「……はい。」
神崎の耳も真っ赤だった。
「嫌なら、もちろんしません。」
陽菜子は神崎を見る。
普段なら、陽菜子が少し近づいただけで大騒ぎする人。
手をつなぐだけでも震えて。
ハグをしただけで限界だと言っていた。
そんな神崎が。
今、自分から一歩近づこうとしている。
陽菜子は胸元をぎゅっと握った。
「……嫌じゃないです。」
神崎の目がわずかに見開かれる。
陽菜子は恥ずかしさに耐えきれず、少し視線を伏せた。
「紅夜くんなら……いいです。」
「…………。」
神崎の喉が、ごくりと鳴った。
「陽菜子さん。」
「はい。」
神崎の手が、ゆっくりと陽菜子の頬へ伸びる。
触れる直前で、一度止まった。
それでも陽菜子が逃げないことを確認してから、そっと頬へ触れる。
温かい手だった。
陽菜子は少しだけ目を閉じた。
次の瞬間。
神崎がゆっくりと顔を近づける。
そして。
二人の唇が、そっと重なった。

すぐには離れなかった。
触れているだけの優しいキスのまま、数秒が過ぎる。
やがて神崎がゆっくりと顔を離した。
「…………。」
「…………。」
静寂。
陽菜子は恐る恐る目を開けた。
目の前には、完全に固まった神崎がいた。
「……紅夜くん?」
「…………。」
「大丈夫ですか?」
次の瞬間。
神崎は勢いよく両手で顔を覆った。
「ギャアアアアアッ!!」
「ええっ!?」
神崎はそのままソファからずり落ち、床へ膝をついた。
「む、無理です!! 陽菜子さんとキスした!!」
「ちょ、紅夜くん!?」
「人生最推しと!!恋人として!!キスを!!」
「声大きいです!隣に聞こえます!」
陽菜子が慌てて神崎の肩を掴む。
しかし、それがさらに悪かった。
「ギャアッ!!今触らないでください!!処理能力を超えています!!」
「紅夜くんからキスしたんじゃないですか!」
「そうです!!なんで俺はそんな恐れ多いことを!!」
「自分で聞いたんでしょう?」
「許可をいただけたので理性が一瞬だけ仕事を放棄しました!!」
「もう……。」
陽菜子は呆れながらも、笑ってしまった。
さっきまで。
神崎がいつもとは違って見えて、少しだけ緊張していた。
けれど。
やっぱり、この人はこの人だった。
「紅夜くん。」
「……はい。」
床に膝をついたまま、神崎が顔を上げる。
陽菜子はそんな神崎へ柔らかく笑いかけた。
「私、嬉しかったですよ。」
「…………。」
神崎が固まる。
「紅夜くんからしてくれて。」
「…………陽菜子さん。」
みるみるうちに、また神崎の顔が真っ赤になっていく。
「今日も世界一可愛いです……。」
「ふふっ。」
会社では、誰に対しても冷静で。
営業成績はいつもトップクラス。
近寄りがたいほど完璧で。
みんなからは、冷たい人だと思われている。
そんな神崎紅夜が。
私の前では。
手をつないだだけで震えて。
抱きしめただけで限界になって。
キスをしただけで床へ崩れ落ちる。
陽菜子は笑いながら、神崎へ手を差し出した。
「ちくわくん。立ってください。」
「……はい。」
神崎はその手を取る。
その瞬間にも、また少しだけ頬を赤くした。
恋人になっても。
手をつないでも。
抱きしめても。
キスをしても。
やっぱり、ちくわくんは――
私の限界オタクでした。
「……どうぞ。」
「……お邪魔します。」
神崎はやけに緊張した声で答えた。
一度来たことのある部屋のはずなのに。
今日はあのときとはまるで違う。
以前は、酔った陽菜子を送り届けただけだった。
けれど今日は。
恋人として、陽菜子に招かれてここにいる。
神崎は玄関で靴を脱ぎながら、何度も深く息を吐いていた。
「紅夜くん?」
「はい。」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。」
「……無理です。」
即答だった。
陽菜子は思わず笑う。
「前にも来たことあるじゃないですか。」
「先ほども申し上げましたが、状況が違います。」
神崎は真剣な顔で答えた。
「今は陽菜子さんの恋人として、この部屋に入っています。」
「……。」
改めて言われると、陽菜子まで恥ずかしくなる。
「と、とりあえず座っててください。飲み物持ってきますね。」
「はい。」
陽菜子は逃げるようにキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けながら、自分の頬へ手を当てる。
(……私も緊張してきた。)
さっきまでは、ただもっと一緒にいたいと思っただけだった。
けれど。
自分の部屋に恋人と二人きり。
そう意識した途端、急に恥ずかしくなってきた。
「紅夜くん、コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「陽菜子さんが淹れてくださるなら、なんでも。」
「なんでもが一番困るんです。」
「では、紅茶でお願いします。」
「はい。」
陽菜子は紅茶を淹れ、二つのカップを持ってリビングへ戻った。
神崎はソファに座っていた。
ただし。
背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上に置いている。
まるで取引先の応接室にでもいるようだった。
「紅夜くん。」
「はい。」
「もっと楽にしていいですよ?」
「十分楽にしています。」
「全然見えませんけど。」
陽菜子は笑いながら、その隣へ腰を下ろした。
その瞬間。
神崎の肩がびくっと跳ねる。
「……近かったですか?」
「いえ。」
「じゃあ、なんで固まったんですか?」
「陽菜子さんが隣に座ったので。」
「今日ずっと隣にいたじゃないですか。」
「ここは陽菜子さんの家です。」
「そんなに違います?」
「全然違います。」
真顔で言われ、陽菜子はまた笑ってしまった。
二人で紅茶を飲みながら、今日の水族館の話をする。
クラゲが綺麗だったこと。
神崎が水槽ではなく陽菜子ばかり見ていたこと。
次はどこへ行こうかという話。
話しているうちに、先ほどまでの緊張は少しずつ薄れていった。
けれど。
カップが空になっても。
二人とも立ち上がろうとはしなかった。
陽菜子は隣にいる神崎を見る。
「……紅夜くん。」
「はい。」
「今日、来てくれてありがとうございます。」
「こちらこそ、誘っていただけて嬉しかったです。」
神崎は柔らかく笑った。
「本当は俺も、まだ帰りたくなかったので。」
陽菜子の胸が、どくんと鳴る。
「……同じですね。」
「はい。」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
静かな部屋に、時計の音だけが響く。
陽菜子は自分の膝の上へ視線を落とした。
神崎ともっと一緒にいたいと思った。
手をつないでみたいと思った。
抱きしめてみたいと思った。
少しずつ。
少しずつ。
神崎との距離が近くなっている。
それが嬉しい。
陽菜子はそっと顔を上げた。
すると。
神崎もこちらを見ていた。
視線が重なる。
「……紅夜くん?」
「…………。」
いつもなら何か言ってくれる神崎が、今日は黙ったままだった。
その視線が、いつもと少し違う。
陽菜子の胸が大きく鳴る。
神崎がゆっくりと身体をこちらへ向けた。
「陽菜子さん。」
「……はい。」
「一つ、お願いしてもいいですか?」
「なんですか?」
神崎は一度、視線を伏せた。
そして。
覚悟を決めたように、もう一度陽菜子を見つめる。
「……キスしても、いいですか?」
「…………。」
陽菜子の思考が止まった。
顔が一気に熱くなる。
「キ、キス……。」
「……はい。」
神崎の耳も真っ赤だった。
「嫌なら、もちろんしません。」
陽菜子は神崎を見る。
普段なら、陽菜子が少し近づいただけで大騒ぎする人。
手をつなぐだけでも震えて。
ハグをしただけで限界だと言っていた。
そんな神崎が。
今、自分から一歩近づこうとしている。
陽菜子は胸元をぎゅっと握った。
「……嫌じゃないです。」
神崎の目がわずかに見開かれる。
陽菜子は恥ずかしさに耐えきれず、少し視線を伏せた。
「紅夜くんなら……いいです。」
「…………。」
神崎の喉が、ごくりと鳴った。
「陽菜子さん。」
「はい。」
神崎の手が、ゆっくりと陽菜子の頬へ伸びる。
触れる直前で、一度止まった。
それでも陽菜子が逃げないことを確認してから、そっと頬へ触れる。
温かい手だった。
陽菜子は少しだけ目を閉じた。
次の瞬間。
神崎がゆっくりと顔を近づける。
そして。
二人の唇が、そっと重なった。

すぐには離れなかった。
触れているだけの優しいキスのまま、数秒が過ぎる。
やがて神崎がゆっくりと顔を離した。
「…………。」
「…………。」
静寂。
陽菜子は恐る恐る目を開けた。
目の前には、完全に固まった神崎がいた。
「……紅夜くん?」
「…………。」
「大丈夫ですか?」
次の瞬間。
神崎は勢いよく両手で顔を覆った。
「ギャアアアアアッ!!」
「ええっ!?」
神崎はそのままソファからずり落ち、床へ膝をついた。
「む、無理です!! 陽菜子さんとキスした!!」
「ちょ、紅夜くん!?」
「人生最推しと!!恋人として!!キスを!!」
「声大きいです!隣に聞こえます!」
陽菜子が慌てて神崎の肩を掴む。
しかし、それがさらに悪かった。
「ギャアッ!!今触らないでください!!処理能力を超えています!!」
「紅夜くんからキスしたんじゃないですか!」
「そうです!!なんで俺はそんな恐れ多いことを!!」
「自分で聞いたんでしょう?」
「許可をいただけたので理性が一瞬だけ仕事を放棄しました!!」
「もう……。」
陽菜子は呆れながらも、笑ってしまった。
さっきまで。
神崎がいつもとは違って見えて、少しだけ緊張していた。
けれど。
やっぱり、この人はこの人だった。
「紅夜くん。」
「……はい。」
床に膝をついたまま、神崎が顔を上げる。
陽菜子はそんな神崎へ柔らかく笑いかけた。
「私、嬉しかったですよ。」
「…………。」
神崎が固まる。
「紅夜くんからしてくれて。」
「…………陽菜子さん。」
みるみるうちに、また神崎の顔が真っ赤になっていく。
「今日も世界一可愛いです……。」
「ふふっ。」
会社では、誰に対しても冷静で。
営業成績はいつもトップクラス。
近寄りがたいほど完璧で。
みんなからは、冷たい人だと思われている。
そんな神崎紅夜が。
私の前では。
手をつないだだけで震えて。
抱きしめただけで限界になって。
キスをしただけで床へ崩れ落ちる。
陽菜子は笑いながら、神崎へ手を差し出した。
「ちくわくん。立ってください。」
「……はい。」
神崎はその手を取る。
その瞬間にも、また少しだけ頬を赤くした。
恋人になっても。
手をつないでも。
抱きしめても。
キスをしても。
やっぱり、ちくわくんは――
私の限界オタクでした。


