せっかち姫とじっくり武人
第2話
「ま、間違えた……間違えたのよ、マーシーっ」
「はいはい、そうですね」
両手で口元を覆い、青ざめた表情で脱衣所の床を見つめるイルヴァに、マーシーはテキパキとボディークリームを塗り、寝間着を着せていく。
食堂を退室して以降、イルヴァはずっと呪文のように「間違えた、間違えた」と言い続けているが、マーシーとしてはたいした問題ではないように思えた。
「いきなり好きだなんて……言うつもりはなかったのよ!」
「はあ、そうですか」
「おかえりなさいませって言って、お勤めお疲れ様でしたって言って……それから普通のお話をして……それで、いい雰囲気になったら好きって……」
「別に、最初に告げても構わないと思いますけどねえ」
「よくないわ! ランナル様のあの驚いた顔を見たでしょう!? ああ、もう、どうして私ってば、こんなにおっちょこちょいなのかしら!」
「おっちょこちょいというか、せっかちですよね」
「ちょっとマーシー! もう少ししっかりと慰めてちょうだいよ!」
「慰めなど不要でしょう。イルヴァ様は失敗をされたわけではありません。大丈夫です。新妻から好きだと言われて嫌な気持ちになる夫など、どこにもおりません」
「それは……でも……」
取り乱しているなりに元気ではあったイルヴァの声が、急にしょぼんと小さくなる。
「この結婚は、私がお父様にお願いしたもの……ランナル様はお嫌だったかもしれないわ……」
子供の頃からずっと恋い焦がれていた相手。その相手との結婚を国主である父に望めば、よほどのことがない限り実現するだろう。それはわかっていた。当人であるランナル自身の意思や感情を考慮しないやり方であることも、イルヴァはきちんと理解していた。それでも彼と結婚したかった。好きだから、好きになってほしかった。
「だからちゃんと時間をかけて、私を好きになってもらいたかったのに……」
宗家に生まれた以上、婚前に互いを知り合い、お付き合いを重ねたうえで婚姻する恋愛結婚は難しい。結婚式当日まで相手とは会話すらせず、個人の結び付きよりも互いの家の結び付きが重視される政略結婚が、宗家に生まれた者のさだめだ。
それでも、先に政略結婚をした姉たちは、それなりに互いを想い合える夫婦になっていると聞いていた。だからイルヴァも、最初こそランナルの気持ちはこちらに向いておらずとも、時間をかけて想い合えるようになれたらいいなと思っていた。
「間違えた……失敗したわ」
「イルヴァ様、大丈夫です。大丈夫なんですよ。失敗ではありません」
イルヴァの身なりの世話が終わったマーシーは、それまでのどこかおざなりな調子から一変し、真面目な眼差しでイルヴァを見つめた。そして、彼女の両肩に両手を置き、ゆっくりと言い聞かせる。
「ランナル様との生活は、まだ始まったばかりです。今日が実質的に二日目ですよ。ランナル様とはこれからゆっくりと、たくさん、お話をなさればよいのです。せっかちに事を進めるのではなく、ランナル様のペースも大事にしながら」
「ランナル様のペースも……?」
「そうです。ランナル様はイルヴァ様とは真逆で、じっくりと腰を据えて物事に取り組むお方とお聞きしております。ランナル様を見習って、イルヴァ様も落ち着いてお話されれば大丈夫でしょう」
マーシーはイルヴァの背をそっと押すと、寝室へと向かわせた。
「結婚式の日は本当にご立派でしたよ。せっかち姫のイルヴァ様でも、やればできます。焦らず、急がず、じっくりとランナル様と向き合うのです」
「マーシー……ありがとう」
寝室のドアを開けたイルヴァは、音量を控えた声で礼を述べた。それから室内に片足を入れたが、すぐにひょこっと顔を出して、マーシーに釘を刺す。
「でも、ランナル様のことは〝旦那様〟と呼んでちょうだい。妬いてしまうわ」
「失礼いたしました。以後、気を付けます」
人口の多いグントバハロンでは、苗字で呼ぶと個人の識別がしづらいため、性別や年齢を問わず、誰もが基本的に親しく名前で呼び合う。その習慣があったうえに、イルヴァがランナルに恋をしてからマーシーもずっと「ランナル様」と呼んでいたので、つい今も名前で呼んでしまう。だが、ランナルはマーシーにとっても主になったのだから、たしかに侍女の立場では「旦那様」と呼ぶべきだろう。
マーシーが頭を下げて謝ると、イルヴァは「おやすみなさい」とマーシーに声をかけた。そして、ランナルが寝室に来るのを今か今かとそわそわしながら待ち続けた。
◆◇◆◇◆
(さて……)
それから、しばらくの時間が経った。
湯浴みを終えてあとは寝るだけになったランナルは、寝室のドアノブに手をかけたまま、しばし廊下に立ち続けていた。そのドアの向こうにはイルヴァが待っているはずだが、果たしてどう振る舞えばよいのだろうか。
(結婚式の日の夜はさすがに抱けなかったが……)
この世界を創ったという神、ウォンクゼアーザに夫婦になることを誓い、書類による契約手続きもして、男女は夫婦になる。しかし多くの公家や武家では、夫婦の夜の営みを行って子供ができてこそ、真に夫婦になったとみなす。結婚式という儀式や、共に暮らすという物理的な環境変化も大事だが、子作りこそが夫婦になったことの証なのだ。
「はいはい、そうですね」
両手で口元を覆い、青ざめた表情で脱衣所の床を見つめるイルヴァに、マーシーはテキパキとボディークリームを塗り、寝間着を着せていく。
食堂を退室して以降、イルヴァはずっと呪文のように「間違えた、間違えた」と言い続けているが、マーシーとしてはたいした問題ではないように思えた。
「いきなり好きだなんて……言うつもりはなかったのよ!」
「はあ、そうですか」
「おかえりなさいませって言って、お勤めお疲れ様でしたって言って……それから普通のお話をして……それで、いい雰囲気になったら好きって……」
「別に、最初に告げても構わないと思いますけどねえ」
「よくないわ! ランナル様のあの驚いた顔を見たでしょう!? ああ、もう、どうして私ってば、こんなにおっちょこちょいなのかしら!」
「おっちょこちょいというか、せっかちですよね」
「ちょっとマーシー! もう少ししっかりと慰めてちょうだいよ!」
「慰めなど不要でしょう。イルヴァ様は失敗をされたわけではありません。大丈夫です。新妻から好きだと言われて嫌な気持ちになる夫など、どこにもおりません」
「それは……でも……」
取り乱しているなりに元気ではあったイルヴァの声が、急にしょぼんと小さくなる。
「この結婚は、私がお父様にお願いしたもの……ランナル様はお嫌だったかもしれないわ……」
子供の頃からずっと恋い焦がれていた相手。その相手との結婚を国主である父に望めば、よほどのことがない限り実現するだろう。それはわかっていた。当人であるランナル自身の意思や感情を考慮しないやり方であることも、イルヴァはきちんと理解していた。それでも彼と結婚したかった。好きだから、好きになってほしかった。
「だからちゃんと時間をかけて、私を好きになってもらいたかったのに……」
宗家に生まれた以上、婚前に互いを知り合い、お付き合いを重ねたうえで婚姻する恋愛結婚は難しい。結婚式当日まで相手とは会話すらせず、個人の結び付きよりも互いの家の結び付きが重視される政略結婚が、宗家に生まれた者のさだめだ。
それでも、先に政略結婚をした姉たちは、それなりに互いを想い合える夫婦になっていると聞いていた。だからイルヴァも、最初こそランナルの気持ちはこちらに向いておらずとも、時間をかけて想い合えるようになれたらいいなと思っていた。
「間違えた……失敗したわ」
「イルヴァ様、大丈夫です。大丈夫なんですよ。失敗ではありません」
イルヴァの身なりの世話が終わったマーシーは、それまでのどこかおざなりな調子から一変し、真面目な眼差しでイルヴァを見つめた。そして、彼女の両肩に両手を置き、ゆっくりと言い聞かせる。
「ランナル様との生活は、まだ始まったばかりです。今日が実質的に二日目ですよ。ランナル様とはこれからゆっくりと、たくさん、お話をなさればよいのです。せっかちに事を進めるのではなく、ランナル様のペースも大事にしながら」
「ランナル様のペースも……?」
「そうです。ランナル様はイルヴァ様とは真逆で、じっくりと腰を据えて物事に取り組むお方とお聞きしております。ランナル様を見習って、イルヴァ様も落ち着いてお話されれば大丈夫でしょう」
マーシーはイルヴァの背をそっと押すと、寝室へと向かわせた。
「結婚式の日は本当にご立派でしたよ。せっかち姫のイルヴァ様でも、やればできます。焦らず、急がず、じっくりとランナル様と向き合うのです」
「マーシー……ありがとう」
寝室のドアを開けたイルヴァは、音量を控えた声で礼を述べた。それから室内に片足を入れたが、すぐにひょこっと顔を出して、マーシーに釘を刺す。
「でも、ランナル様のことは〝旦那様〟と呼んでちょうだい。妬いてしまうわ」
「失礼いたしました。以後、気を付けます」
人口の多いグントバハロンでは、苗字で呼ぶと個人の識別がしづらいため、性別や年齢を問わず、誰もが基本的に親しく名前で呼び合う。その習慣があったうえに、イルヴァがランナルに恋をしてからマーシーもずっと「ランナル様」と呼んでいたので、つい今も名前で呼んでしまう。だが、ランナルはマーシーにとっても主になったのだから、たしかに侍女の立場では「旦那様」と呼ぶべきだろう。
マーシーが頭を下げて謝ると、イルヴァは「おやすみなさい」とマーシーに声をかけた。そして、ランナルが寝室に来るのを今か今かとそわそわしながら待ち続けた。
◆◇◆◇◆
(さて……)
それから、しばらくの時間が経った。
湯浴みを終えてあとは寝るだけになったランナルは、寝室のドアノブに手をかけたまま、しばし廊下に立ち続けていた。そのドアの向こうにはイルヴァが待っているはずだが、果たしてどう振る舞えばよいのだろうか。
(結婚式の日の夜はさすがに抱けなかったが……)
この世界を創ったという神、ウォンクゼアーザに夫婦になることを誓い、書類による契約手続きもして、男女は夫婦になる。しかし多くの公家や武家では、夫婦の夜の営みを行って子供ができてこそ、真に夫婦になったとみなす。結婚式という儀式や、共に暮らすという物理的な環境変化も大事だが、子作りこそが夫婦になったことの証なのだ。