愛が全てじゃないけれど
*****
「なに、やってんの」
低く威圧的な声に、ディスプレイから顔を上げる。
定時十分前に人事部に現れた奈都は、分厚いファイルを胸に抱いていた。
昼間、部長の机で見たものと同じようだ。
専務の遣いで取りに来たのだろう。
「お疲れ」
「美空」
「なによ」
「あと十分で片付くの? それ」
奈都が顎で、私の左手に積まれたファイルを示す。
「無理ね」
「でしょうね。じゃあ、今すぐファイルを片付けて」
「……」
「美空」
「行かないわ」
「どうして」
「残業するから」
「しなければいい」
「もう、断った」
肺活量を量るかのように、奈都がすっと口で息を吸うと、はっと一気に吐いた。
そして、少し前屈みになって声を潜めた。
「彼に不満があるの?」
「ないわ」
「じゃあ、どうして」
「まだ……一週間だし」
「食事でしょ?」
「そう……だけど」
「美空」
苛立ちを隠せない奈都の声が大きくなっていく。
私も奈都もそれぞれ今夜、峰濱さんと神海さんと食事の約束をした。
奈都はバーで神海さんに会った夜、私が帰った一時間後に彼と別れたらしい。
すっかり意気投合していたから、もしかしたら帰らないのではと思ったが、神海さんからお誘いはなかったそう。
ただ「もう少し一緒にいたいけど」とだけ言ってくれたと、奈都は少し不満そうに、そして嬉しそうに話してくれた。
今夜、奈都は家に帰らないかもしれない。
峰濱さんがそのつもりだなんて思っていない。
けれど、峰濱さんがどんなつもりかはわからない。
要は、怖気づいた。
「残業があるのは事実だし、彼もわかってくれた」
「そ! わかった。じゃ、私はこのファイルを専務に届けて、メイクを直して帰るわ」
奈都が呆れ顔で出て行く。
慶太朗と別れて、いや恋人の裏切りの現場に遭遇してからまだ、一週間。
確かに、別れ方を考えたら一週間後に他の男と食事したからって咎められることはない。
逆に、あんな目に遭ったのだからと同情的な声の方が大きいかもしれない。
や、誰に咎められて、誰に同情されるっていうのよ……。
自分の思考に自分でツッコミを入れて、それがなんだか恥ずかしくて、キーボードを叩く。
結局、私自身が後ろ向きな気持ちなのだから、仕方がない。
一度はOKしておきながら勝手だとは思うが、時間が経つにつれて気持ちが変わってしまった。
後ろめたさのような感情が湧いてしまった。
あんな状況を見られてしまった峰濱さんからの誘いに、同情されているのではないだろうかと気になった。
もしそうなら、これ以上親しくなるべきではない、と。
それもこれも、一昨日のドラマのせいね……。
私は、ドラマや映画をよく見る。
恋愛もの以外だが。
理由は簡単、ドキドキ、ハラハラ、スカッとできるストーリーや映像が好きだから。