その笑顔が、ずるい。

第一部 まだ、名前はない。

彼と出会ってから、少しだけ変わったことがある。

スマホを見る回数が増えた。

別に、連絡を待っているわけではない。

……たぶん。

通知が来ていないことを確認して、スマホを伏せる。

数分後、また手に取る。

「……何してんだろ、私。」

自分で笑ってしまう。

彼から連絡が来ることなんて、別に珍しくもない。

だから、少しくらい気にするのも普通。

少なくとも、この時の私はそう思っていた。



その日も、二人で話していた。

彼はいつものように真面目な話をしていたかと思えば、突然どうでもいいことを言い出す。

「いや、それは絶対おかしいって。」

「なんで?」

「だってさ――」

彼は真剣な顔をして説明し始める。

……と思ったら、途中で自分でも何かがおかしくなったのか、突然吹き出した。

「ふふっ……いや、待って。自分で言ってて分からなくなった(笑)」

「えぇ(笑)」

「いやほんとに(笑)」

そして、笑う。

目尻がくしゃっと下がって、口元が大きく開く。

無邪気で、子どもみたいで。

さっきまで真面目な顔で話していた人と同じ人には見えない。

思わず、私まで笑ってしまう。

「……何?」

「いや、なんか……」

「なんか?」

「……可愛いなと思って。」

口にしてから、自分で少し驚いた。

「あ。」

彼も一瞬だけ目を丸くした。

「……可愛い?」

「いや、なんかその……笑い方が(笑)」

慌てて付け足す。

「そういう意味じゃなくて!」

「どういう意味(笑)」

「知らん(笑)」

二人でまた笑った。

彼は少し照れたように視線を逸らして、それから何事もなかったように話を続けた。

私はその横顔を見ながら、

――こういうところ、好きだな。

と、ほんの一瞬だけ思った。

でも、その時はまだ、その感情に名前をつけなかった。



彼は不思議な人だった。

真面目そうに見える。

実際、勉強の話をすると驚くほど真剣だ。

将来のことを話すときも、適当なことを言わない。

「ちゃんとやらないとね。」

なんて言いながら、地道なことを淡々と続けている。

なのに。

ふとした瞬間には、びっくりするほど無邪気になる。

しょうもないことで笑う。

少しだけ得意げな顔をする。

何かを見つけると、子どもみたいに「見て」と言ってくる。

そのたびに、

「……この人、こんな顔するんだ。」

と思う。

そして、その顔を見るのが少し楽しみになっていた。



ある日、二人で歩いていた。

私は彼の隣で、何気なく話を聞きながら歩道を歩いていた。

そのときだった。

「危ない!」

突然、腕を引かれた。

身体がふわっと横に引き寄せられる。

次の瞬間、すぐ後ろを自転車が通り過ぎていった。

「……え?」

何が起きたのか分からず、彼を見る。

彼はまだ私の腕を掴んでいた。

「後ろから来てた。」

「あ……」

「気づいてなかったでしょ。」

「……うん。」

彼は少し呆れたように笑う。

「危ないよ。」

そう言って、ようやく手を離した。

たったそれだけ。

ただ自転車から避けさせてくれただけ。

なのに。

遅れて、心臓が大きく跳ねた。

「……ありがとう。」

「うん。」

彼は何でもなかったように、また歩き始める。

私はその隣についていく。

さっきまでと同じ道。

同じ歩幅。

同じ人。

なのに、なぜか少しだけ意識してしまう。

自分の腕に残った感覚を。

そして、その横顔を。



「……なんでだろ。」

小さく呟く。

「何が?」

「え?」

彼がこちらを見る。

「何か言った?」

「ううん、何でもない。」

「そう?」

彼は首を傾げた。

その顔がまた少し幼く見えて、笑ってしまう。

「なんで笑うの?」

「なんでもないって(笑)」

「絶対なんかあるじゃん。」

そう言いながら、彼も笑った。

その笑顔を見ていると、こっちまで嬉しくなる。

胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。

私はその理由を考えなかった。

考えないようにしていたわけでもない。

ただ、

「この人といるの、好きだな。」

それくらいにしか思っていなかった。



帰宅してから、今日のことを思い返す。

彼が笑ったこと。

くだらない話をしたこと。

自転車から引き寄せられたこと。

どうでもいい会話まで、妙に鮮明に思い出せる。

スマホを開く。

彼とのトーク画面を見る。

少しだけ迷ってから、閉じる。

「……また話したいな。」

そう呟いて、自分でも少し笑った。

友達なんだから。

仲良くなった人なんだから。

また話したいと思うくらい、普通だ。

そう結論づけて、スマホを置いた。

その頃の私はまだ、

自分がもう、とっくに彼のことを特別に見ていたことに気づいていなかった。
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