無邪気な余白

第二部 その笑顔が、ずるい。

それからしばらくして。

彼と二人で出かけることにも、少しずつ慣れていた。

会えば、くだらないことで笑う。

彼は真面目な話をしていたかと思えば、突然子どもみたいなことを言い出す。

何か面白いものを見つければ、少し得意げにこちらを振り返る。

そのたびに、

――また始まった。

と思う。

それなのに、結局私も笑っている。

そんな時間が、いつの間にか好きになっていた。



その日は、夕方から雨の予報だった。

けれど、まだ空は明るい。

二人で一軒の店に入り、食事をする。

彼はメニューを眺めながら、真剣な顔で悩んでいた。

さっきまでくだらないことで笑っていたのに、こういうところだけ妙に真面目だ。

注文を決めると、今度はスマホを取り出して何かを確認している。

「何してるの?」

「今日の予定。」

帰りの時間や電車の時刻を確認してくれているらしい。

「そこまで考えてるんだ。」

「帰れなくなったら困るでしょ。」

そう言って、何でもないことのように笑う。

――やっぱり、ちゃんとしてる。

そんなところが、少し意外だった。



店を出る。

まだ雨は降っていなかった。

「少し歩く?」

彼の提案に頷いて、二人で駅とは反対方向へ歩き出した。

夕方の街は、昼間より少し静かだった。

並んで歩きながら、学校のことや勉強のこと、最近あったどうでもいい出来事を話す。

途中で彼が何かを思い出して、突然笑い出す。

「……何?」

「いや、今思い出したら面白くて。」

「何それ(笑)」

「いや、ほんとにくだらないんだけど。」

そう言いながら、また笑う。

目尻がくしゃっと下がる。

私はその横顔を見ながら、つられて笑った。

こういう時間が好きだった。

目的地がなくても。

特別なことをしなくても。

ただ隣を歩いているだけで、なんとなく楽しい。



しばらく歩いていると、少しずつ足が痛くなってきた。

最初は気にしなかった。

けれど、歩くたびに靴が当たる。

無意識に歩幅が小さくなる。

すると、隣を歩いていた彼がふと足元を見る。

「……靴、大丈夫?」

「え?」

「さっきからちょっと歩き方違う。」

「……分かるの?」

「分かるよ。」

自分でも気づかない程度の変化だった。

「大丈夫だよ。」

「大丈夫じゃないじゃん。」

「ほんとに大丈夫。」

彼は少しだけ黙った。

そして、近くのベンチを指差す。

「……じゃあ、少し休もう。」

「え、でも――」

「いいから。」

その言い方が、珍しく少しだけ強かった。

私は思わず黙る。

けれど彼はすぐにいつもの柔らかな表情に戻った。

「無理して歩く必要ないでしょ。」

「……うん。」

ベンチに座る。

彼も隣に腰を下ろした。

さっきまであんなに喋っていたのに、今は何も言わない。

ただ、私が休めるように隣で静かに待っている。

そのことが、なんだか嬉しかった。



少しして、私は立ち上がる。

「もう大丈夫。」

「ほんとに?」

「うん。」

「じゃあ、ゆっくり行こう。」

歩き出す。

今度は、さっきより少しだけゆっくり。

私に合わせてくれているのが分かった。

しばらくして、彼が何気なくこちらを見る。

「痛かったら言ってね。」

「うん。」

「我慢しなくていいから。」

「……分かった。」

それだけ言って、彼は前を向いた。

私はその横顔を見ながら、少しだけ笑う。

やっぱり優しい。

でも本人は、きっとそれを特別なことだと思っていない。



やがて、空から小さな雨粒が落ちてきた。

最初は気のせいかと思うくらいだった。

けれど、数分もしないうちに雨は強くなっていく。

二人で近くの軒下へ駆け込む。

彼が空を見上げる。

「……結構降ってきたね。」

スマホを取り出して、電車の時間を確認する。

次の電車まではまだ少しある。

雨は、しばらく止みそうにない。

「どうしよう。」

私が呟くと、彼は少し考えた。

それから、ふとこちらを見る。

「……うち、ここから近いけど。」

一瞬、言葉が止まる。

「雨が弱くなるまで、寄ってく?」

付き合っているわけでもない。

特別な約束をしていたわけでもない。

ただの雨宿り。

それだけのはずだった。

「……じゃあ、お邪魔します。」

「うん。」

彼は少し嬉しそうに笑った。



彼の家に入る。

玄関で靴を脱ぎ、部屋へ案内される。

思っていたより、ずっときちんとしていた。

机の上には勉強道具。

本棚には法律関係の本。

必要なものが必要な場所に置かれていて、妙に整っている。

けれど、その一角だけ少し生活感があった。

彼が普段ここで過ごしていることが、なんとなく分かる。

「座ってて。」

そう言って、彼は飲み物を用意する。

私はソファに腰を下ろした。

しばらくして、彼が戻ってくる。

「はい。」

差し出されたグラスを受け取る。

「ありがとう。」

「うん。」

彼も隣に座った。

窓の外では、まだ雨が降っている。

二人とも、しばらくその音を聞いていた。



やがて雨脚が少し弱くなった。

スマホを見る。

もう帰れない時間ではない。

帰ろうと思えば帰れる。

なのに。

立ち上がる気になれなかった。

彼も時計を確認してから、窓の外を見る。

「……もうちょっとしたら止みそう。」

「うん。」

「帰る?」

そう聞かれて、私は一瞬だけ迷った。

「……もう少しいてもいい?」

口にした瞬間、少しだけ恥ずかしくなる。

彼は驚いたようにこちらを見る。

でも、すぐにふっと笑った。

「うん。」

それだけだった。

彼はテレビをつける。

映画の一覧を眺めながら、何を見るか考えている。

私はその横顔を見る。

いつもの、ぽやっとした表情。

さっきまで子どもみたいに笑っていた顔。

なのに、その隣にいると妙に安心する。

外はもう暗くなり始めていた。

雨の音は、少しずつ小さくなっていく。

それでも私は、もうしばらくここにいたいと思った。

そして雨が上がる頃には、もう少しだけ、この人のそばにいたいと思っていた。

彼も、特に帰るようには言わなかった。

結局その夜、私はそのまま彼の家に残ることになった。
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