無邪気な余白

第三部 その距離を、越える夜。

夜もすっかり遅くなっていた。

彼の家のリビングで話していたはずなのに、いつの間にか会話は途切れていた。

彼がこちらを見る。

「……今日、楽しかった?」

「うん。」

「俺も。」

その笑顔は、さっきまでの無邪気な笑顔とは少し違った。

柔らかくて、静かで。

その目に見つめられると、今までとは違う緊張が胸の奥に広がっていく。

隣に座っているだけなのに、妙に近く感じる。

「……眠い?」

そう聞かれて、小さく頷く。

「うん……ちょっとだけ。」

彼は少し笑った。

いつもの、あのぽやっとした無邪気な笑顔。

なのに、今日はなぜか目を逸らせなかった。

「じゃあ、もう寝ようか。」

そう言って立ち上がった彼に手を差し出される。

その手を取ると、彼はゆっくりと私を立たせた。

そして、ほんの少しだけこちらへ近づく。

「……どうしたの?」

そう尋ねても、彼は答えない。

ただ、私の顔をじっと見つめていた。

いつものお茶目な雰囲気とは違う、静かな目。

思わず息を止める。

彼の手が頬に触れる。

そして――

まるで割れ物に触れるかのようにそっと私を包み込む。

「……!?」

名前を呼ぼうとすると、腕の力がほんの少しだけ強くなった。

胸元に顔を寄せると、心臓の音が聞こえる気がした。

自分の鼓動なのか、彼のものなのか分からない。

「……もう少し、このままでいていい?」

小さな声。

「……うん。」

やがて彼が少しだけ身体を離す。

目が合う。

近い。

息が触れそうな距離。

そのまま彼は一度だけ私の目を見て――

ゆっくりと顔を寄せた。

唇が触れる。

ほんの一瞬。

離れたと思ったら、もう一度。

今度は少しだけ長く。

胸の奥が熱くなって、何も言えなくなる。

彼はそんな私を見て、少し照れたように笑った。

その笑顔は、やっぱりいつもの彼だった。

でも私はもう、その笑顔を前と同じようには見られなかった。

「……行こうか。」

そう言って、今度は私の手を握った。

二人で寝室へ向かう。

ベッドの端に腰を下ろすと、彼がこちらを見る。

その表情があまりにも優しくて、また胸が高鳴った。

彼はそっと私を抱き寄せる。

そしてそのまま、ベッドへゆっくりと身体を預けた。

すぐ隣に彼の気配がある。

手を握ったまま、もう一度だけ目が合う。

言葉はなかった。

ただ、その距離だけが少しずつ近づいていった。
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