汚部屋の姫に、目覚めのキスを。

汚部屋の姫に、目覚めのキスを。

 ソレは心の隙間に入り込む。
 ソレはこちらの戦意を喪失させる。
 ソレは仲間を連れてくる。
 ソレは部屋を占領する。
 そうして、ソレの巣食う世界に堕ちると、もう抜け出せないのだ。



 ◇ ◇ ◇

 
「はぁ。疲れた〜」

 リーン、リーン………。
 虫の音が響く夜道。
 私は肩に食い込むかと思えるくらい重いビジネスバッグを掛け、自宅マンションまで急いで帰る。 

 今日は退社後に客先訪問していたので、帰りが遅くなった。
 閉店ギリギリのスーパーに駆け込み、半額シールの貼ってあるお弁当を買った。それが本日の夕食になる。

「あれ?  坂上さん? 今帰りですか?」

 マンションの入口に近づいた時、対面から来た男性に声を掛けられる。聞き馴染みのあるイケボに、胸が高鳴った。

「あ、嶋さん! そうなんですよ……。さっきまでクライアントさんのとこ訪問してて」

「遅くまで大変だね。お疲れ様です」
 嶋さんは気遣うように、優しく微笑んでくれる。

 彼は同じマンションに住んでる嶋さん。とあるきっかけで、知り合いになったんだ。

 今日の嶋さんは、白っぽいオーバーサイズのTシャツ、黒のパンツにサンダルを履いたラフなスタイルだった。
 いつもは額を出したアップバングが多いが、今日は前髪を無造作に垂らしていて、街灯に照らされた彼はとても色っぽかった。

 あまりジロジロ見ているのもまずいと思って慌てて目を逸らすと、手に持っている黒い手提げのバッグが目に入った。

「嶋さんは買い物帰りですか?」
「そう、そこのコンビニまで。今日仕事休みだったんで、部屋の掃除してたら集中しちゃって、こんな時間ですよ。これから晩飯なんです」
 嶋さんは苦笑いをしながら、首の後ろに手を当てる。

「へぇ、そうなんですね。すごい。それはお疲れ様です」
「あ、坂上さん。引き止めちゃってすみません。入りましょう」
 嶋さんがマンションの方に向かって手のひらを出して促す。

「あ、はい。そうですね」
 もっとゆっくりお話したかったが、仕方なく嶋さんの後に続いた。

「部屋の掃除って、一日中してたんですか?」

「いや、昼過ぎからかな。やり始めたら、風呂のカビ取りやら、排水溝の掃除やら、色々気になっちゃって。休みの時くらいしか細かい所は出来ないしね。一人暮らしだと、自分で全部やるしかないから大変っすよね〜」

 エントランスに入り、オートロックの鍵を開けながら答えてくれた。

「あー、そ、そうですね……。はい」
 エレベーターのボタンを押すと扉が開いて、二人で乗り込んだ。それぞれが、三階、五階とボタンを押す。

「そういえば、家具の調子どうですか?」
 嶋さんが思い出したかのように尋ねてきた。

「あ、だ、大丈夫です! すごい調子いいです!」
「それなら良かった」

 嶋さんはほっとしたように優しく笑った。私の胸がチクリと痛む。
 その時エレベーターがチンッと鳴って止まり、扉が開いた。

「あ、そうだ。これどうぞ」
 嶋さんは手提げバッグから何かを取り出し、私に差し出してきた。反射的に両手で受け取る。
 カップに入ったモンブランだった。

「じゃあ、また。おやすみ」
  顔を上げると、すでに嶋さんはエレベーターを降りていて、こちらに手を振っていた。

 ドアが閉まる瞬間に私は慌てて、
「ありがとうございます。おやすみなさいっ」
 早口で伝える。

 ドアが閉まると、エレベーターはゆっくりと動き出す。

 私はモンブランを両手で持ったまま、壁に寄りかかった。まだ、胸がドキドキしている。

「はぁ〜。うれしい……。尊すぎる……」
 思わず口から声が漏れた。

 嶋さんは私の働いている会社の近くにある、西洋のアンティーク家具や北欧家具などを扱うインテリアショップの店員さんだ。

 社会人になりたてだった一年半前のこと。まだこのマンションに越してきたばかりで家具が揃ってなかったので、仕事帰りに寄ってみた。

 そこで嶋さんに出会った。 
 私の好みや予算に合わせて色々相談に乗ってくれて、感じのいい店員さんだなと思った。

 家具購入後、暫くして偶然エントランスで再会し、同じマンションに住んでることを知った。
 それから会うと挨拶や、軽く世間話が出来るくらいの仲になって、今では私の片思い。


 感動に浸っていると、すでにエレベーターは五階に到着していて、ドアは全開だった。
 ふらふらと夢心地のまま自宅に戻るが、一瞬で現実に引き戻される。

「う……っ。これは、まずいよね……」
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