どこかで、誰かの恋がはじまる
第6話 契約の悪魔は、お人好しすぎる
どこかで、誰かの恋がはじまる
深夜零時、古びたアパートの一室で、月見里つきみさと栞しおりは古書店で見つけた奇妙な本のページを開いていた。
「『この本に名を記せば、悪魔が一つだけ願いを叶える』……なにこれ、いかにも怪しい」
半信半疑で名前を書き込んだ瞬間、部屋の空気がぐにゃりと歪み、目の前に黒いスーツ姿の青年が現れた。
「お呼びだてにより参上した。契約の悪魔、ザガンだ。願いを一つ、聞いてやろう」
「うわ、本当に出た!?」
栞は椅子から転げ落ちそうになりながら、目の前の悪魔とやらを見つめた。整った顔立ちに、どこか気だるげな笑み。悪魔というより、モデルか俳優のような雰囲気だった。
「疑うのも無理はない。だが、時間は有限だ。願いを言え。金でも、名誉でも、恋でも構わん」
「え、えっと……」
栞は少し考えてから、思い切って口にした。
「じゃあ、来週の就職面接、うまくいきますように」
「……随分と、慎ましい願いだな」
ザガンは意外そうに眉を上げた。てっきり大金や権力を求められると思っていたのだろう。
「大きな願いより、今の私に必要なのはそれだから」
「面白い人間だ。分かった、叶えてやろう。ただし、対価が必要だ」
「対価? 魂とか取られちゃうやつ?」
「そこまで大層なものは要らん。……そうだな、しばらく俺をここに住まわせろ。契約の履行を見届ける必要がある」
「はあ!? 悪魔と同居!?」
こうして、栞のワンルームには、突如として悪魔の同居人が増えることになった。
* * *
翌日から、ザガンの奇妙な同居生活が始まった。人間の生活様式に詳しくない彼は、電子レンジで卵を爆発させ、洗濯機に洗剤を大量投入して部屋を泡だらけにした。それでも、栞が困っているときには、さりげなく手を貸してくれる。
「栞、面接の資料、これで足りているのか」
「え、見てくれるの?」
「暇だからな」
そう言いながらも、ザガンは栞の作った書類を丁寧に確認し、的確な指摘をくれた。悪魔らしからぬ面倒見の良さに、栞は毎日少しずつ、彼への警戒心を解いていった。
「ザガンって、悪魔なのに優しいよね」
「悪魔だから優しくないと決めつけるのは、人間の偏見だ」
「そういうところが、なんかお人好しっぽいっていうか」
「……余計なお世話だ」
そっぽを向くザガンの耳が、心なしか赤くなっている気がして、栞は思わず笑ってしまった。
面接当日、緊張でガチガチになっていた栞に、ザガンは玄関先で小さな紙切れを渡した。
「これを持っていけ。俺の加護を込めておいた」
「魔法のお守り、みたいな?」
「そんな大層なものじゃない。ただの、俺なりのまじないだ」
素っ気ない言い方だったが、その気遣いに、栞の胸はじんわりと温かくなった。面接は驚くほどうまくいき、その場で内定の一報を受け取ることができた。
* * *
「やった、受かった!」
帰宅するなり抱きついてきた栞を、ザガンは戸惑いながらも、そっと受け止めた。
「よかったな」
「ザガンのおかげだよ、ほんとに」
「俺は契約通りのことをしただけだ」
「それだけじゃないでしょ。毎日、私のこと気にかけてくれてたじゃない」
栞が顔を上げると、思ったよりずっと近い距離にザガンの顔があった。悪魔らしい不敵さの奥に、どこか人間くさい戸惑いが滲んでいる。
「……契約は、これで満了だ。俺は本来、元の世界に戻らねばならない」
「そんな、急に……」
「だが」
ザガンは栞の頬に、そっと手を添えた。
「戻る前に、一つだけ聞いておきたい。俺がいなくなったら、寂しいと思うか」
「思うに決まってる。すごく、寂しい」
「そうか」
ザガンは小さく笑うと、額を栞の額にこつんと重ねた。
「ならば、契約とは別の理由で、しばらくここに残ることにしよう。……お前が、俺を必要としている限り」
「それ、私が一生必要って言ったら、一生いてくれるの?」
「悪魔に、そんな都合のいい約束をさせる気か」
「ザガンなら、してくれそうな気がする」
見透かしたような栞の言葉に、ザガンは観念したように苦笑した。
「……敵わないな、お前には」
窓の外、夜空に浮かぶ月が、二人の新しい始まりを静かに照らしていた。契約という名で始まった奇妙な同居生活は、いつの間にか、どちらも手放したくない大切な日常に変わっていた。
深夜零時、古びたアパートの一室で、月見里つきみさと栞しおりは古書店で見つけた奇妙な本のページを開いていた。
「『この本に名を記せば、悪魔が一つだけ願いを叶える』……なにこれ、いかにも怪しい」
半信半疑で名前を書き込んだ瞬間、部屋の空気がぐにゃりと歪み、目の前に黒いスーツ姿の青年が現れた。
「お呼びだてにより参上した。契約の悪魔、ザガンだ。願いを一つ、聞いてやろう」
「うわ、本当に出た!?」
栞は椅子から転げ落ちそうになりながら、目の前の悪魔とやらを見つめた。整った顔立ちに、どこか気だるげな笑み。悪魔というより、モデルか俳優のような雰囲気だった。
「疑うのも無理はない。だが、時間は有限だ。願いを言え。金でも、名誉でも、恋でも構わん」
「え、えっと……」
栞は少し考えてから、思い切って口にした。
「じゃあ、来週の就職面接、うまくいきますように」
「……随分と、慎ましい願いだな」
ザガンは意外そうに眉を上げた。てっきり大金や権力を求められると思っていたのだろう。
「大きな願いより、今の私に必要なのはそれだから」
「面白い人間だ。分かった、叶えてやろう。ただし、対価が必要だ」
「対価? 魂とか取られちゃうやつ?」
「そこまで大層なものは要らん。……そうだな、しばらく俺をここに住まわせろ。契約の履行を見届ける必要がある」
「はあ!? 悪魔と同居!?」
こうして、栞のワンルームには、突如として悪魔の同居人が増えることになった。
* * *
翌日から、ザガンの奇妙な同居生活が始まった。人間の生活様式に詳しくない彼は、電子レンジで卵を爆発させ、洗濯機に洗剤を大量投入して部屋を泡だらけにした。それでも、栞が困っているときには、さりげなく手を貸してくれる。
「栞、面接の資料、これで足りているのか」
「え、見てくれるの?」
「暇だからな」
そう言いながらも、ザガンは栞の作った書類を丁寧に確認し、的確な指摘をくれた。悪魔らしからぬ面倒見の良さに、栞は毎日少しずつ、彼への警戒心を解いていった。
「ザガンって、悪魔なのに優しいよね」
「悪魔だから優しくないと決めつけるのは、人間の偏見だ」
「そういうところが、なんかお人好しっぽいっていうか」
「……余計なお世話だ」
そっぽを向くザガンの耳が、心なしか赤くなっている気がして、栞は思わず笑ってしまった。
面接当日、緊張でガチガチになっていた栞に、ザガンは玄関先で小さな紙切れを渡した。
「これを持っていけ。俺の加護を込めておいた」
「魔法のお守り、みたいな?」
「そんな大層なものじゃない。ただの、俺なりのまじないだ」
素っ気ない言い方だったが、その気遣いに、栞の胸はじんわりと温かくなった。面接は驚くほどうまくいき、その場で内定の一報を受け取ることができた。
* * *
「やった、受かった!」
帰宅するなり抱きついてきた栞を、ザガンは戸惑いながらも、そっと受け止めた。
「よかったな」
「ザガンのおかげだよ、ほんとに」
「俺は契約通りのことをしただけだ」
「それだけじゃないでしょ。毎日、私のこと気にかけてくれてたじゃない」
栞が顔を上げると、思ったよりずっと近い距離にザガンの顔があった。悪魔らしい不敵さの奥に、どこか人間くさい戸惑いが滲んでいる。
「……契約は、これで満了だ。俺は本来、元の世界に戻らねばならない」
「そんな、急に……」
「だが」
ザガンは栞の頬に、そっと手を添えた。
「戻る前に、一つだけ聞いておきたい。俺がいなくなったら、寂しいと思うか」
「思うに決まってる。すごく、寂しい」
「そうか」
ザガンは小さく笑うと、額を栞の額にこつんと重ねた。
「ならば、契約とは別の理由で、しばらくここに残ることにしよう。……お前が、俺を必要としている限り」
「それ、私が一生必要って言ったら、一生いてくれるの?」
「悪魔に、そんな都合のいい約束をさせる気か」
「ザガンなら、してくれそうな気がする」
見透かしたような栞の言葉に、ザガンは観念したように苦笑した。
「……敵わないな、お前には」
窓の外、夜空に浮かぶ月が、二人の新しい始まりを静かに照らしていた。契約という名で始まった奇妙な同居生活は、いつの間にか、どちらも手放したくない大切な日常に変わっていた。