どこかで、誰かの恋がはじまる
第5話 雨宿りの、あと一歩
どこかで、誰かの恋がはじまる
夕立が降り出したのは、大学からの帰り道、商店街の途中だった。
「うそ、傘忘れた……」
七海奏なぎさは軒先に駆け込み、鞄を抱えたまま空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込め、しばらく止みそうな気配はない。仕方なく、目の前の小さな喫茶店に飛び込んだ。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、見覚えのある顔だった。同じ大学の、隣の学部の男子――確か、名前は東雲しののめ悠だったはずだ。サークルの新歓で一度だけ話したことがある。まさかここでバイトしているとは知らなかった。
「あ……東雲くん、だよね」
「覚えててくれたんだ。奇遇だね、七海さん」
悠はカウンターから出てきて、濡れた奏の肩にタオルを差し出した。ふとした気遣いに、奏の胸が小さく跳ねる。
「ありがとう。雨、急に降ってきちゃって」
「今日は夕方から荒れるって、天気予報で言ってたよ。傘、持ってなかったんだ」
「うん……。あの、コーヒー一杯、お願いしてもいい? 雨宿りさせてもらう分」
「もちろん。とっておきの豆、使うよ」
奏は窓際の席に座り、雨音を聞きながら悠の淹れるコーヒーの香りに包まれていた。カウンター越しに見える横顔は、新歓の時よりもずっと落ち着いて、大人びて見えた。
* * *
「お待たせ」
運ばれてきたコーヒーは、想像していたよりずっと香り高かった。ひとくち飲んで、奏は思わず声を上げる。
「これ、すごく美味しい」
「だろ? ここのマスター、豆の焙煎にこだわってて。俺もまだ半人前だけど、教わりながらやってる」
「バイト、いつから?」
「半年くらい前から。将来、自分の店を持ちたくて」
悠は少し照れくさそうに笑った。奏はその夢を語る表情に、素直に心を動かされた。サークルで見かけていた印象とは違う、静かな熱意を持った一面を知った気がした。
「意外。東雲くんって、もっとふわっとした人かと思ってた」
「よく言われる。でも、これだけは本気なんだ」
会話が弾む中、窓の外の雨は一向に止む気配がなかった。むしろ勢いを増しているようにさえ見える。悠は時計をちらりと見た後、少し迷うような表情を浮かべた。
「あの、良ければなんだけど。この後、俺のシフト、もうすぐ終わるから」
「うん」
「一緒に、雨が止むまでここにいない? もう一杯、奢るからさ」
不意な誘いに、奏の心臓がとくんと跳ねた。深い意味はないのかもしれない。それでも、今日この偶然を、彼が惜しんでくれているような気がして、素直に嬉しかった。
「うん、いいよ。ちょうど、今日は特に予定もないし」
「よかった」
悠はほっとしたように笑うと、カウンターの奥へ戻っていった。奏はその背中を見つめながら、鞄の中のスマートフォンをそっと確認する。友人から届いていたメッセージへの返信は、後回しでいいと思えた。今この瞬間の方が、ずっと大切に思えたから。
* * *
シフトを終えた悠が、私服に着替えて戻ってきた。エプロン姿とは違う、シンプルなシャツ姿に、奏は思わず視線を逸らした。
「お待たせ。マスターが気を利かせて、今日はもう上がっていいって」
「そうなんだ。悪いことしちゃったかな」
「全然。むしろ、マスターがニヤニヤしてたのが恥ずかしかったよ」
悠は苦笑いしながら、奏の向かいの席に座った。窓の外の雨は、少しずつ弱まり始めている。夕暮れの光が雲の切れ間から差し込み、店内をオレンジ色に染めていた。
「実は、新歓のとき、七海さんのこと、ちょっと気になってたんだ」
不意に告げられた言葉に、奏は目を丸くした。
「え、そうなの? 全然気づかなかった」
「あの日、人見知りしてる後輩に、さりげなく話しかけてたでしょ。ああいう気配りができる人なんだなって、なんとなく覚えてた」
「そんなところ、見られてたんだ……」
奏は照れくさくなって、コーヒーカップに視線を落とした。まさか、自分の何気ない行動を、誰かがそんな風に見ていてくれたとは思わなかった。
「今日、偶然会えて、正直嬉しかった。運命、とか言ったら大げさかもしれないけど」
「大げさじゃないよ。私も、同じこと思ってたから」
窓の外、雨はいつの間にかすっかり止んでいた。夕焼けに染まった空に、小さな虹がかかっている。奏はそれに気づいて、思わず声を上げた。
「あ、虹!」
「ほんとだ」
二人並んで窓の外を見上げる。肩が触れそうな距離に、奏の鼓動は落ち着かなかった。
「……あのさ、七海さん」
「なに?」
「この後、時間あったら、もう少し一緒にいない? 夕飯とか、どうかなって」
「うん。行きたい」
即答した奏に、悠は少し驚いたように、それから嬉しそうに笑った。
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
「私も、東雲くんがこの後急に用事あるとか言い出したら、地味に凹んでたと思う」
顔を見合わせて、二人は同時に笑った。夕立が運んできた小さな偶然が、これから始まる何かのきっかけになる予感がした。店を出ると、濡れたアスファルトが夕陽を反射して、街全体がきらきらと輝いて見えた。
「傘、貸すよ。まだちょっと路面濡れてるし、危ないから」
「東雲くんは?」
「俺は平気。それより、はぐれないように、こっち」
悠が自然に差し出した手に、奏はそっと自分の手を重ねた。特別な言葉なんてなくても、その温もりだけで、これから始まる何かを、はっきりと感じ取ることができた。
夕立が降り出したのは、大学からの帰り道、商店街の途中だった。
「うそ、傘忘れた……」
七海奏なぎさは軒先に駆け込み、鞄を抱えたまま空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込め、しばらく止みそうな気配はない。仕方なく、目の前の小さな喫茶店に飛び込んだ。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、見覚えのある顔だった。同じ大学の、隣の学部の男子――確か、名前は東雲しののめ悠だったはずだ。サークルの新歓で一度だけ話したことがある。まさかここでバイトしているとは知らなかった。
「あ……東雲くん、だよね」
「覚えててくれたんだ。奇遇だね、七海さん」
悠はカウンターから出てきて、濡れた奏の肩にタオルを差し出した。ふとした気遣いに、奏の胸が小さく跳ねる。
「ありがとう。雨、急に降ってきちゃって」
「今日は夕方から荒れるって、天気予報で言ってたよ。傘、持ってなかったんだ」
「うん……。あの、コーヒー一杯、お願いしてもいい? 雨宿りさせてもらう分」
「もちろん。とっておきの豆、使うよ」
奏は窓際の席に座り、雨音を聞きながら悠の淹れるコーヒーの香りに包まれていた。カウンター越しに見える横顔は、新歓の時よりもずっと落ち着いて、大人びて見えた。
* * *
「お待たせ」
運ばれてきたコーヒーは、想像していたよりずっと香り高かった。ひとくち飲んで、奏は思わず声を上げる。
「これ、すごく美味しい」
「だろ? ここのマスター、豆の焙煎にこだわってて。俺もまだ半人前だけど、教わりながらやってる」
「バイト、いつから?」
「半年くらい前から。将来、自分の店を持ちたくて」
悠は少し照れくさそうに笑った。奏はその夢を語る表情に、素直に心を動かされた。サークルで見かけていた印象とは違う、静かな熱意を持った一面を知った気がした。
「意外。東雲くんって、もっとふわっとした人かと思ってた」
「よく言われる。でも、これだけは本気なんだ」
会話が弾む中、窓の外の雨は一向に止む気配がなかった。むしろ勢いを増しているようにさえ見える。悠は時計をちらりと見た後、少し迷うような表情を浮かべた。
「あの、良ければなんだけど。この後、俺のシフト、もうすぐ終わるから」
「うん」
「一緒に、雨が止むまでここにいない? もう一杯、奢るからさ」
不意な誘いに、奏の心臓がとくんと跳ねた。深い意味はないのかもしれない。それでも、今日この偶然を、彼が惜しんでくれているような気がして、素直に嬉しかった。
「うん、いいよ。ちょうど、今日は特に予定もないし」
「よかった」
悠はほっとしたように笑うと、カウンターの奥へ戻っていった。奏はその背中を見つめながら、鞄の中のスマートフォンをそっと確認する。友人から届いていたメッセージへの返信は、後回しでいいと思えた。今この瞬間の方が、ずっと大切に思えたから。
* * *
シフトを終えた悠が、私服に着替えて戻ってきた。エプロン姿とは違う、シンプルなシャツ姿に、奏は思わず視線を逸らした。
「お待たせ。マスターが気を利かせて、今日はもう上がっていいって」
「そうなんだ。悪いことしちゃったかな」
「全然。むしろ、マスターがニヤニヤしてたのが恥ずかしかったよ」
悠は苦笑いしながら、奏の向かいの席に座った。窓の外の雨は、少しずつ弱まり始めている。夕暮れの光が雲の切れ間から差し込み、店内をオレンジ色に染めていた。
「実は、新歓のとき、七海さんのこと、ちょっと気になってたんだ」
不意に告げられた言葉に、奏は目を丸くした。
「え、そうなの? 全然気づかなかった」
「あの日、人見知りしてる後輩に、さりげなく話しかけてたでしょ。ああいう気配りができる人なんだなって、なんとなく覚えてた」
「そんなところ、見られてたんだ……」
奏は照れくさくなって、コーヒーカップに視線を落とした。まさか、自分の何気ない行動を、誰かがそんな風に見ていてくれたとは思わなかった。
「今日、偶然会えて、正直嬉しかった。運命、とか言ったら大げさかもしれないけど」
「大げさじゃないよ。私も、同じこと思ってたから」
窓の外、雨はいつの間にかすっかり止んでいた。夕焼けに染まった空に、小さな虹がかかっている。奏はそれに気づいて、思わず声を上げた。
「あ、虹!」
「ほんとだ」
二人並んで窓の外を見上げる。肩が触れそうな距離に、奏の鼓動は落ち着かなかった。
「……あのさ、七海さん」
「なに?」
「この後、時間あったら、もう少し一緒にいない? 夕飯とか、どうかなって」
「うん。行きたい」
即答した奏に、悠は少し驚いたように、それから嬉しそうに笑った。
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
「私も、東雲くんがこの後急に用事あるとか言い出したら、地味に凹んでたと思う」
顔を見合わせて、二人は同時に笑った。夕立が運んできた小さな偶然が、これから始まる何かのきっかけになる予感がした。店を出ると、濡れたアスファルトが夕陽を反射して、街全体がきらきらと輝いて見えた。
「傘、貸すよ。まだちょっと路面濡れてるし、危ないから」
「東雲くんは?」
「俺は平気。それより、はぐれないように、こっち」
悠が自然に差し出した手に、奏はそっと自分の手を重ねた。特別な言葉なんてなくても、その温もりだけで、これから始まる何かを、はっきりと感じ取ることができた。