君の声
 綾の言葉に、樹は息を吸うことすら忘れて硬直した。
 ようやく振り絞って出した声は僅かに震えていた。
「……俺のところ、って?」
「……別れてから一度だけ、詩織に連絡したことあったでしょ。待ってるって」
 綾の言葉に樹の記憶が鮮明に蘇る。
 あの日。どうしてもやり直したくて、詩織に連絡した。二人で見つけたあの公園で待っている、と。
 樹は、約束の時間よりも前からその場所で待っていた。何時間経っても、詩織は来なかった。
 だから、嫌われたんだと思っていた。 もう二度と会いたくないから、来なかったのだと。
「あの時に?」
 掠れた声が、ようやく喉からこぼれた。
「お医者さんにもどうして特定の記憶が抜けたのか、はっきりしたことは分からないって」
「……」
「事故の衝撃もあったし、事故の前後に強い精神的な負担があったことも関係しているかもしれないって。ただそれ以上のことは分からないって」
 綾は一度、言葉を選ぶように視線を落とした。
「だから……樹くんのことを忘れたのは、詩織が自分から忘れようとしたからじゃないと思う」
 居酒屋のガヤガヤとした賑やかな音が、今の樹の耳にはひどく遠く、水の中にいるようにくぐもって聞こえた。
 飲み会のあの場や仕事現場で再会した彼女の、あの冷たいほどに真っ直ぐな「初めまして」という声が脳内でリフレインする。
(あぁ、そうか。わざと他人のフリをしていたわけじゃなかったんだ)
 心のどこかで、ほんの僅かにしがみついていた最後の淡い希望が、音を立ててガラガラと崩れ落ちていく。
「だから余計に、どうして樹くんのことだけ思い出せないのか……私にも分からない」
「なんで……なんで樹なんだよ!」
 拓馬が声を荒らげ、周囲のサラリーマンが不審そうにこちらを振り返る。京平がそれを手で制する。
 痛みの奥で、不思議なくらい安心している自分がいた。
 嫌われたわけじゃなかったんだ。
 会いたくなかったわけじゃない。
 忘れたくて忘れたわけでもない。
 詩織はちゃんと、あの日も俺の方へ向かってくれていた。
 それだけで十分だった。
 十分なはずなのに。
 どうしてこんなに苦しいんだろう。
 樹は笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。震える手でグラスを握る。結露した冷たさが、現実を突きつけてくる。
「……なんで、今まで教えてくれなかったんだ」
 精一杯の力で絞り出した言葉は、詰問というよりは嘆願に近かった。
「……あの時、私も後から連絡を受けて病院へ駆けつけたの。その時にはもう、詩織の携帯は事故の衝撃で壊れていて、樹くんの連絡先も分からなかった。目が覚めてからも、詩織は自分の事故のことをあまり話したがらなかったし、高校の頃のことを思い出そうとすると、辛そうだった。」
 綾は苦しげに言葉を切る。
「……樹くんに伝えるべきだとは何度も思った。でも、詩織がやっと少しずつ前を向いて、家族にも、無理に過去を思い出させないでほしいって言われて……私が過去を持ち込んでいいのか、分からなかった」
 綾は沈痛な面持ちで樹を見つめた。
「だって、もし私が樹くんに連絡していたら……樹くん、すぐに飛んできたでしょう?」
 その言葉に、樹は息を呑んだ。
 綾の指摘は痛いほど正しかった。連絡を受け取ったその瞬間、自分は居ても立っても居られず、彼女の元へ駆けつけていただろう。
「私がそれを言えなかったのは、樹くんを恨んでいたからじゃないの。」
 綾は一度、視線を落とす。
「……ただ、あの時の詩織に、樹くんを会わせていいのか分からなかった。やっと少しずつ日常を取り戻していたから……。もし樹くんが現れたら、何かが大きく変わってしまう気がして」
 綾の声が震える。
「だから……怖かったの。あの子を守るために、私が勝手に決めてしまった。」
「ごめんね」とつぶやく綾の瞳から一粒の涙がこぼれた。黙って聞いていた京平と拓馬も何も言わない。
「……そうだよな」
 沈黙を破るように樹が小さく呟いた。
 綾が嘘をついているようには思えない。言いたいこともなんとなく分かる。
 今の詩織が、どんな思いでここまできたのかも。
 だったら、自分が過去を持ち込むわけにはいかない。
「俺は、今の彼女にとっての他人でいるよ。」
 樹は静かに息を吐いた。
「仕事で関わる以上、そこではちゃんとプロとして接する。……昔のことも、俺からは言わない。」
 それが、今の自分にできることだった。
 詩織が何も知らないままで笑っていられるなら、それでいい。
 たとえ、その笑顔の隣にいる自分が、昔の『樹くん』ではなくても。
「お前、それでいいのか?」
「いいっていうか、そうするしかないじゃん。詩織が俺を避けてた訳じゃないってわかっただけで、充分」
 そう言って樹は笑った。自分に言い聞かせるようにいうその声は僅かに震えていた。
「綾ちゃん、話してくれてありがとう。」
「ううん。——いつか樹くんに伝える日が来るんだろうなって、どこかで思ってたから」
 綾はそう言って涙を浮かべて困ったように笑う。その表情に樹は何も言えなくなる。それでも——
「——よし、食おう!俺腹減った」
 一瞬、噛みしめるように目を瞑って樹は明るく振る舞った。
「——ここの揚げ出し、うまいぞ」
「俺、ビール追加で。ほかは?」
 樹の振る舞いに合わせるように、京平と拓馬が続く。
 運ばれた料理を口にしながら、少しずつ懐かしい話にも花が咲いた。

「今日は本当にありがとう。詩織のこと、聞けてよかった」
「こっちこそ。詩織のこと、よろしくね」
「任せて。じゃあ俺、先に帰るわ。またな」
 店を出て綾にもう一度礼を告げる。駅に着くと樹は一足先に改札を抜けていく。その後ろ姿を見つめながら綾が零す。
「樹くん……嘘、下手だね」
「あんな顔して誤魔化せるわけねぇっつーの」
「まぁあいつのそういうところ、昔から変わってないよ。」
 三人はそれ以上何も言わず、樹の背中を見送った。

 京平たちと別れ、一人になった帰り道。樹はぼんやりと考える。
 詩織が自分のことを忘れてしまった。綾たちの前ではああ言ったものの、その事実は樹にとってにわかに受け入れ難いものだった。それでもあの日の詩織の態度にも説明がいく。
『樹くん』『佐野さん』
 付き合っていた頃の詩織の声と再会した時に自分を呼んだ声が頭の中で重なった。どちらも間違いなく詩織の声だった。なのにそこに込められていたものは、まるで違っていた。
 どうにか自宅に辿り着き、重い足取りで玄関のドアを開ける。暗い部屋のソファに力なく倒れ込むと、静寂が否応なしに部屋を支配する。
 外の雑音が遠のき、耳の奥で誰かの声が再生され始める。
 高校時代の放送室。少し埃っぽい空気と古い機材の匂い。
 そして——詩織の声。

 ——あっつい、涼ませて
 ——すごい汗だね。
 ——頑張った証拠。ねぇ、何聞いてるの?
 ——新譜。
 ——俺にも聞かせて
 ——うん、いいよ。一緒に聴こっか

 それが二人にとって当たり前だった

 「……くそっ」
 もう込み上げてくるものを抑えることは出来なかった。静かに一筋の涙が樹の頬を伝う。記憶の中でへへっと照れたように笑う詩織。思い出さないように、奥に閉じ込めたはずの記憶たちが次々と駆け巡る。
 
 せっかく、会えたと思ったのに。
 やっともう一度会えたのに。
 どうして、こんなことになってしまったんだ。
 
 樹は一人、暗い部屋の中で記憶の中の詩織を見つめていた。
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