君の声
 数日後。
 樹はイベントの準備に追われていた。打ち合わせを重ねる度に少しずつ詩織とも打ち解けることができ、仕事のパートナーとして信頼を寄せていた。
 会場となる水族館を詩織他数名のスタッフと訪れて視察をしていた時、ポケットに入れたスマートフォンが震えた。
『綾と連絡が取れた。十九時、駅前の「みゆき」っていう居酒屋。』
 メッセージアプリには京平から通知が入っていた。懐かしい名前に心臓が跳ねる。井上綾。高校の詩織の友人だ。もちろん樹とも面識がある。五人でよく一緒にいた。彼女なら何かを知っているかもしれない。
「佐野さん!あの、ここなんですけど」
「!」
 詩織に声をかけられ、思わずびくついてしまう。詩織はそれを不思議そうに見ている。
「すみません、急に話しかけてしまって」
「あ、いやこっちこそごめん。どうかした?」
 何でもない、と誤魔化して尋ねれば詩織が手元のタブレットを差し出しながら「この機械の位置なんですけど」と機材の配置について確認してくる。
「んーそうだね。見た感じちょっと狭いかもしれないな。あとで俺から施設側にも確認しておくよ」
「わかりました。私は念のためリテイク案出しておきますね」
 そう言うと詩織はスタッフの元に戻っていく。勝手に彼女の過去を知ることは卑怯なのかもしれない。けど、知りたいと思う。スタッフと談笑しながらタブレットをのぞき込む姿を見つめ、『了解』と返信し、スマートフォンを再びポケットに閉まった。

 十九時。樹は駅前の居酒屋「みゆき」の前にいた。
 この店のドアを開ければ、自分の知らない出来事を知ることになるかもしれない。ここにきて僅かな恐怖が樹の中に芽生える。再会してしまった以上、もう戻ることはできないのだ、と自分に言い聞かせる。少しだけ逡巡して意を決して店の暖簾を潜った。
「いらっしゃいませー」
「すみません、連れがいると思うのですが」
「佐野様ですか?東堂様より伺ってますので奥の個室へご案内しますね。」
 にこやかに店員に案内される。店員の背中に従いながら、狭い通路を進む。すれ違うサラリーマンたちの笑い声や、食器が触れ合う賑やかな音が、今の樹の耳にはひどく遠く感じられた。
 案内された個室の引き戸を引くと、そこには京平と拓馬、そしてもう一人女性が座っていた。井上綾(いのうえあや)、高校の同級生だ。雰囲気が大人びてこそいるが、懐かしい面影がある。
「お、樹。来たか」
「樹くん、久しぶり」
「綾ちゃん、久しぶりだね。急に呼び出して、ごめんね」
 いつものように軽いトーンを意識して席に着く。綾は「全然!」と笑う。彼女の明るい笑顔は学生の頃そのままだった。懐かしさとほんの少しの寂しさが樹を襲う。ここ数日、なぜかセンチメンタルになっている気がする。
 注文した生ビールが届き、形だけの乾杯を済ませたあと、綾がグラスを置いて、まっすぐに樹を見た。
「詩織のこと、だよね。」
 その名を聞いただけで、胸の奥がちくりと痛む。樹は小さく息を吸い込み、覚悟を決めて言葉を紡いだ。
「……再会したんだ。詩織と」
 綾の眉が、ピクリと跳ねた。持つ手がわずかに震え、グラスの中の琥珀色の液体が揺れる。
「俺は心臓が止まるかと思うぐらい驚いた。でも、あいつは『初めまして』なんて挨拶してきたんだ。それから仕事でまた会って。あいつの会社と、俺のプロジェクトで組むことになって、それでもやっぱり他人行儀で。昔事故にあったとは言ってたけど、綾ちゃん、なんか知ってる?」
「……やっぱり、いつかはこうなると思ってたよ。樹くんには、隠し通せるわけないって」
 綾がゆっくりと顔を上げる。その表情には、同情と、そして残酷な現実を告げる諦めが混ざっていた。
「みんな、驚かないで聞いてね……詩織はね、大学の時に事故に遭って。そのあと、高校の時の記憶を大きく失くしたの」
 お調子者の拓馬が、持っていたジョッキを重くテーブルに置いた。
「……待って、綾。それ、どういうこと。詩織ちゃんが、俺たちのことを覚えてないってこと……?」
 久しぶりに再会した綾は、居酒屋の騒がしい喧騒から逃げるように、手元のグラスを見つめたまま小さく息を吐いた。隣に座る京平は、厳しい表情で樹の様子を窺っている。
「言葉通りの意味だよ」
  綾の声は静かだったが、この席の空気を完全に凍りつかせるには十分だった。
「大学三年生にあがる直前、あの子、道路に飛び出した子どもを庇って大きな交通事故に遭ったの。頭を強く打って、一時は意識不明で……。命は助かったんだけど、目が覚めたときには、高校時代の記憶の大部分が抜け落ちてた」
「高校時代って……」
「うん。私たちのことも覚えてない。もちろん樹くんのことも。」
 樹は何も言えなかった。
 拓馬が信じられないといった風に頭を抱える。「ドラマじゃあるまいし……」と呟く声は、ひどく掠れていた。
 京平が低い声で尋ねる。
「戻る可能性は?」
「あるかもしれない。でもいつ戻るのかも、戻らないのかも分からないって」
 綾はゆっくりと言葉を紡ぐ。
 しばらく沈黙が落ちた。
「……俺たちのことは、本当に何も?」
「最初はね、私のことも覚えてなかった。」
 綾は小さく息を吐く。
「でも毎日話して、高校の頃の写真を見せたりしてるうちに、少しずつ私のことは思い出してくれた。今の生活を取り戻すことも一つずつ頑張ってた。」
「じゃあ、俺たちは?」
「まだ、はっきりと思い出してない」
 綾は静かに首を横に振った。
「写真を見れば、見覚えがあるような気がすることはある。でも、それが本当の自分の記憶なのかも分からないって」
 綾は一度言葉を止める。
「だから……無理に思い出させない方がいいって、家族も考えてた」
「……」
「詩織は事故に遭ったこと自体は覚えてる。でも、その前後のことは全部分かってるわけじゃない。ただ、高校時代のことを思い出そうとすると、何か大切なものが抜け落ちてる気がするって言ってた。」
 綾はそこで言葉を止めた。
「だから私は……樹くんには言わない方がいいと思った。」
 初めて、正面に座る樹の目を真っ直ぐに見つめた。
「え……?」
 樹の口から、気の抜けたような声が漏れた。
「……あの子が事故に遭ったの、樹くんのところに向かう途中だったの」
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