選ばなかった人生

 「お母さん今日学校行きたくない」

 朝の七時十三分。
 娘のその一言を聞いた瞬間、私は心の中でため息をついた。
 またか。
 そう思った自分に少しだけ罪悪感を覚える。
 娘は悪くない。
 むしろ、彩美(あみ)は優しい子だ。
 弟が泣けばすぐに駆け寄るし、私が疲れていると「大丈夫?」と声をかけてくれる。
 私の誕生日にはまだ小さな手で選んだハンカチをくれた。
 そんな娘を私は愛している。

 ――なのに。

 「どうしたの?」
 
 私は味噌汁をよそいながら聞いた。
 
 「なんとなく……」
 「なんとなくじゃ分からないよ。もう時間ないよ」
 
 言ってからしまったと思った。
 娘の顔が少し曇る。
 
 「……ごめん」
 「怒ってないよ」
 
 そう言いながら私は時計を見た。
 七時十五分。
 夫はまだ寝ている。
 昨日も帰ってきたのは遅かった。
 今日もきっと子供たちの朝の支度を手伝うことはない。
 私は娘のランドセルを玄関まで運び、弟を起こし朝食の片付けをして自分の身支度をする。

 いつもの朝。
 いつもの忙しさ。
 いつもの家族。
 私はふと窓の外を見た。
 通学する子供たち。
 その姿を眺めながら、ふと思った。

 ――もし、子供がいなかったら。
 朝はもっと静かだっただろう。
 好きな時間に起きて、好きな服を着て、好きな場所へ行く。
 誰かの体調を心配することもない。
 誰かの機嫌を気にすることもない。
 泣き声に起こされることもない。
 私は自由だった。

 「お母さん?」
 
 娘の声で我に返った。

 「なに?」
 「今日、帰ってきたら一緒にテレビ見よう」
 
 娘が笑った。
 私は一瞬言葉に詰まった。

 「……うん。いいよ」
 
 笑い返す。
 娘は嬉しそうに玄関を出ていった。
 ドアが閉まり静かになった家の中で私は一人になった。
 そして誰にも聞こえない声で呟いた。

 「……私、こんな人生が欲しかったんだっけ」
 
 そのときはまだ知らなかった。

 数週間後。
 私は本当に「子供のいない人生」を選ぶことになる。

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