さよなら、ブラック
2 桜の木の下で
大学生になったわたしは、それなりにキャンパスライフを満喫していた。
アルバイトをしたり、サークル活動をしたり、たまに授業をサボって友達とバーゲンに行ったり。
ただひとつ、友達と違ったのは、それほど彼氏が欲しいとは思わなかったこと。
ある友達に、信じられないというような顔で「どうして?」と尋ねられたが、まさか本当の理由なんて言えるわけもなく、
「白馬に乗った王子さまが迎えに来るのを待ってるだけ」
なんて言って、はぐらかしていた。
あいつとは、あれから程なくして別れた。
こちらから別れを切り出すと、驚いた表情で、
「なんで?」
と言われたので、その一言でわたしは吹っ切れた。
男を見る目のない自分が、ほとほと嫌になった。
見た目も中身もごくごく普通のわたしのことを、好きになってくれた人。
自分に自信が持てないわたしのことを、好きになってくれた人。
初めての彼氏。
だから、わたしは彼の要求に答え続けた。
それは、まさか愛なんてことはなく、情でもなく。
嫌われたくない。
という、ただの保身だった。
ひとりで街中を歩いている時、カップルとすれ違っても、
「今はひとりだけど、わたしにも彼氏いるんだから」
って思えるちっぽけでしょうもない自信。
それだけのことで、わたしはちょっと背筋を伸ばして街の中を歩くことができたんだと思う。
今のわたしは、というと。
ひとりはやっぱり寂しい。
あいつは最低なことをしたけれど、楽しい思い出だってある。
クリスマスやバレンタインのようなイベントごとがあると、ひとりは身に染みる。
ひとりしか知らなかった時よりよけいに。
だけど。
彼氏をつくる、ということは、いずれはまたああいう関係にならなければならない時が来るわけで。
それを考えると、一歩が踏み出せない。
足がすくんでしまう。
あの時のあの記憶が、ひょんなことがきっかけで思い出されるたびに、言いようのないものに襲われて、ひとりおびえる。
テレビで女性が襲われている場面を見てしまった時。
「こわい」という感情を抱いてしまった時。
時間がたっていても、いつも鮮明に蘇るのだ。
だから。
わたしが、また普通に恋をすることなんて、やっぱりもう無理なのかもしれない。
男性とデートをすることなんて、もうないかもしれない。
そう思っていた。
本当にそう思っていたのに、わたしは今、男と一緒にお茶をしている。
しかも、オープンテラスのあるお洒落なカフェで。
目の前の男は、レモンティの入ったカップをゆっくり口に運んでは、そのたびに、ふぅ、と息を吐く。
さかのぼること30分前。
わたしは大学の中庭にいた。
雲ひとつない真っ青な空に、まるで特大の定規をあてて描いたような飛行機雲を見つけ、それが伸びるのを眺めながら歩いていた。
次第に自分の視界に、青々とした桜の若葉が入ってきて、きらきらとした木漏れ日に見とれそうになった時。
自分のつま先が、何かにぶつかった。
「痛っ!」
足元を見るのと同時くらいに、足元から男の声がした。
そこには、耳を抑えて顔を歪めている男がいた。
男のすぐそばに、ハードカバーの本が転がっている。
どうやらここで寝転んで本を読んでいたらしい。
そこへ、わたしのローキックが彼の耳を直撃したようだ。
「すみません」
わたしは膝に顔がつくくらい頭を下げて謝ると、その男は、
「ああ、痛かったぁ。耳がめり込むかと思った」
と言って、ゆっくり体を起こした。
「本当にごめんなさい」
わたしはもう一度、頭を下げた。
その男は、耳を気にしながら立ち上がり、ビンテージ風のジーパンについた草を払った。
「キミ、なかなかの荒技持ってるね」
そう言うと、男はにんまり笑った。
立ち上がったその男は背が高く、子供を見下ろすようにわたしを見た。
「ごめんなさい」
木を仰ぐように男を見上げると、目が合ってしまった。
思わず目をそらし、彼の紫色のスニーカーに視線を落とした。
「じゃあ、おわびにさ。お茶でもおごってよ」
その一言で、わたしは今、その男とこのカフェにいる。
髪の色こそ変えていないが、グリーンの幾何学模様のカーディガンに、指にはシルバーのリング。
多分、この人アート系。
彼を前にしてそんなことを考えていた。
そして、レモンティを優雅に飲む男を見て、だんだん冷静になってきて思った。
結局あれって、ナンパみたいなものだった?
素直におわびしようと思っていたのに、なんだか虚しくなってしまった。
「さっきさ、何考えてたの?」
突然、男が口を開いた。
「え、っと……何も考えてませんでした」
わたしがそう言うと、男は小さく笑った。
テーブルに頬づえをつき、わたしに顔を近づける。
「キミ、おもしろいね」
そう言って、くすりと笑った。
褒めてもらっているとは到底思えず、わたしは顔がひきつった。
「あなたは、さっきなにを読んでたんですか?」
「俺?官能小説」
男のその言葉にドン引きした。
それを男も察したのか、
「うそうそ。デンドロカカリヤ読んでた」
と、何かの呪文のような言葉を唱えた。
「デンデン、カナリヤ?」
わたしがそう言うと、男は吹き出した。
「それじゃあ、でんでん虫とカナリヤの話みたいじゃない。デ、ン、ド、ロ、カ、カ、リ、ヤ」
と言って、まだ笑っている。
「ふ~ん」
まったくわからないという顔をしていると、
「けっこうおもしろいんだよ」
と言って、微笑んだ。
アート系だと思ったその男は、文芸サークル所属で、しかも工学部情報工学科の人間だった。
あの服のセンスとあの軽さ、そして文芸サークルと工学部がどれもミスマッチで、わけのわからない人だと思った。
「じゃあ、ここはキミのおごりね」
そう言って、男は伝票をわたしに差し出した。
「は、はい」
本当にこれはおわびだったんだ、と伝票を受け取りながら思った。
レジを済ませて店の外に出ると、男は「ごちそうさまでした」と言って合掌した。
「いえ」
わたしは首を横に振りながら、財布をバッグに入れた。
「じゃ、またね」男は軽く手を上げ、あっさりとその場を去ろうとするので、
「あの!」
わたしは思わず呼びとめてしまった。
「なに?」
男は首を傾げる。
「名前、なんていうんですか」
わたしのその問いに、男はにんまり笑った。
「大木歩。キミは?」
「わたしは、久我みちる」
「みちるちゃんね。OK、覚えた」
そう言って、その場を去ろうとした歩は、もう一度振り返り、
「俺、あそこによくいるから」
と言って、軽く手を上げ去っていった。
アルバイトをしたり、サークル活動をしたり、たまに授業をサボって友達とバーゲンに行ったり。
ただひとつ、友達と違ったのは、それほど彼氏が欲しいとは思わなかったこと。
ある友達に、信じられないというような顔で「どうして?」と尋ねられたが、まさか本当の理由なんて言えるわけもなく、
「白馬に乗った王子さまが迎えに来るのを待ってるだけ」
なんて言って、はぐらかしていた。
あいつとは、あれから程なくして別れた。
こちらから別れを切り出すと、驚いた表情で、
「なんで?」
と言われたので、その一言でわたしは吹っ切れた。
男を見る目のない自分が、ほとほと嫌になった。
見た目も中身もごくごく普通のわたしのことを、好きになってくれた人。
自分に自信が持てないわたしのことを、好きになってくれた人。
初めての彼氏。
だから、わたしは彼の要求に答え続けた。
それは、まさか愛なんてことはなく、情でもなく。
嫌われたくない。
という、ただの保身だった。
ひとりで街中を歩いている時、カップルとすれ違っても、
「今はひとりだけど、わたしにも彼氏いるんだから」
って思えるちっぽけでしょうもない自信。
それだけのことで、わたしはちょっと背筋を伸ばして街の中を歩くことができたんだと思う。
今のわたしは、というと。
ひとりはやっぱり寂しい。
あいつは最低なことをしたけれど、楽しい思い出だってある。
クリスマスやバレンタインのようなイベントごとがあると、ひとりは身に染みる。
ひとりしか知らなかった時よりよけいに。
だけど。
彼氏をつくる、ということは、いずれはまたああいう関係にならなければならない時が来るわけで。
それを考えると、一歩が踏み出せない。
足がすくんでしまう。
あの時のあの記憶が、ひょんなことがきっかけで思い出されるたびに、言いようのないものに襲われて、ひとりおびえる。
テレビで女性が襲われている場面を見てしまった時。
「こわい」という感情を抱いてしまった時。
時間がたっていても、いつも鮮明に蘇るのだ。
だから。
わたしが、また普通に恋をすることなんて、やっぱりもう無理なのかもしれない。
男性とデートをすることなんて、もうないかもしれない。
そう思っていた。
本当にそう思っていたのに、わたしは今、男と一緒にお茶をしている。
しかも、オープンテラスのあるお洒落なカフェで。
目の前の男は、レモンティの入ったカップをゆっくり口に運んでは、そのたびに、ふぅ、と息を吐く。
さかのぼること30分前。
わたしは大学の中庭にいた。
雲ひとつない真っ青な空に、まるで特大の定規をあてて描いたような飛行機雲を見つけ、それが伸びるのを眺めながら歩いていた。
次第に自分の視界に、青々とした桜の若葉が入ってきて、きらきらとした木漏れ日に見とれそうになった時。
自分のつま先が、何かにぶつかった。
「痛っ!」
足元を見るのと同時くらいに、足元から男の声がした。
そこには、耳を抑えて顔を歪めている男がいた。
男のすぐそばに、ハードカバーの本が転がっている。
どうやらここで寝転んで本を読んでいたらしい。
そこへ、わたしのローキックが彼の耳を直撃したようだ。
「すみません」
わたしは膝に顔がつくくらい頭を下げて謝ると、その男は、
「ああ、痛かったぁ。耳がめり込むかと思った」
と言って、ゆっくり体を起こした。
「本当にごめんなさい」
わたしはもう一度、頭を下げた。
その男は、耳を気にしながら立ち上がり、ビンテージ風のジーパンについた草を払った。
「キミ、なかなかの荒技持ってるね」
そう言うと、男はにんまり笑った。
立ち上がったその男は背が高く、子供を見下ろすようにわたしを見た。
「ごめんなさい」
木を仰ぐように男を見上げると、目が合ってしまった。
思わず目をそらし、彼の紫色のスニーカーに視線を落とした。
「じゃあ、おわびにさ。お茶でもおごってよ」
その一言で、わたしは今、その男とこのカフェにいる。
髪の色こそ変えていないが、グリーンの幾何学模様のカーディガンに、指にはシルバーのリング。
多分、この人アート系。
彼を前にしてそんなことを考えていた。
そして、レモンティを優雅に飲む男を見て、だんだん冷静になってきて思った。
結局あれって、ナンパみたいなものだった?
素直におわびしようと思っていたのに、なんだか虚しくなってしまった。
「さっきさ、何考えてたの?」
突然、男が口を開いた。
「え、っと……何も考えてませんでした」
わたしがそう言うと、男は小さく笑った。
テーブルに頬づえをつき、わたしに顔を近づける。
「キミ、おもしろいね」
そう言って、くすりと笑った。
褒めてもらっているとは到底思えず、わたしは顔がひきつった。
「あなたは、さっきなにを読んでたんですか?」
「俺?官能小説」
男のその言葉にドン引きした。
それを男も察したのか、
「うそうそ。デンドロカカリヤ読んでた」
と、何かの呪文のような言葉を唱えた。
「デンデン、カナリヤ?」
わたしがそう言うと、男は吹き出した。
「それじゃあ、でんでん虫とカナリヤの話みたいじゃない。デ、ン、ド、ロ、カ、カ、リ、ヤ」
と言って、まだ笑っている。
「ふ~ん」
まったくわからないという顔をしていると、
「けっこうおもしろいんだよ」
と言って、微笑んだ。
アート系だと思ったその男は、文芸サークル所属で、しかも工学部情報工学科の人間だった。
あの服のセンスとあの軽さ、そして文芸サークルと工学部がどれもミスマッチで、わけのわからない人だと思った。
「じゃあ、ここはキミのおごりね」
そう言って、男は伝票をわたしに差し出した。
「は、はい」
本当にこれはおわびだったんだ、と伝票を受け取りながら思った。
レジを済ませて店の外に出ると、男は「ごちそうさまでした」と言って合掌した。
「いえ」
わたしは首を横に振りながら、財布をバッグに入れた。
「じゃ、またね」男は軽く手を上げ、あっさりとその場を去ろうとするので、
「あの!」
わたしは思わず呼びとめてしまった。
「なに?」
男は首を傾げる。
「名前、なんていうんですか」
わたしのその問いに、男はにんまり笑った。
「大木歩。キミは?」
「わたしは、久我みちる」
「みちるちゃんね。OK、覚えた」
そう言って、その場を去ろうとした歩は、もう一度振り返り、
「俺、あそこによくいるから」
と言って、軽く手を上げ去っていった。