さよなら、ブラック

3 動き出した時間

本当に、歩はあの桜の木の下によくいた。
授業をちゃんと受けているのだろうか、とこちらが心配してしまうくらい、しょっちゅう見かけた。
彼はそこで、大半は本を読んで過ごしているようだった。
わたしは中庭で歩に会うたび、声をかけたり、目だけであいさつをしたりした。
彼はそれに優しく応じてくれた。

「こんにちは」
と声をかければ、
「こんにちは、元気?」
と。
わたしが目だけで微笑めば、彼もにっこり笑って返してくれた。
日に日に彼にひかれていく自分に気がついていた。
そして、それと同時にむくむくと不安も大きくなった。

ある日、いつものように桜の木の下で歩に声をかけたら、突然、
「今から映画、見に行く?」
と誘われた。
体の中の何かが、固まったのがわかった。

「それは、つまり、デートのお誘いなんでしょうか」
わたしのその直球の問いに、歩は少し照れくさそうにして、
「一応、そのつもりなんですけど」
と言って、こめかみを人差し指でかいた。
これは嬉しい出来事のはず。
間違いなく嬉しい出来事のはずなのに、素直に喜べない。

この関係の先には、何があるの?
何が起こる?
それを考えると、頭の中にどす黒いものがたち込める。
映画鑑賞用彼女じゃだめかな。
もしくは、茶飲み彼女。
うまく相づちだって入れるよ。

そんなことを考えていたわたしの顔は、きっとよほど沈んでいたのだろう。
歩は、
「無理なら、いいよ」
と優しく言ってくれたけれど、少し残念そうなのが見てとれた。
彼を悲しませるつもりなんてまったくないのに、そんなことを言わせてしまった自分が嫌になった。
「行くよ」
そう言って、わたしは精一杯笑顔を作った。

「何か見たいの、ある?」
歩は芝生の上にあぐらをかく。
「突然言われても……」
わたしが考えを巡らせていると、
「じゃ、俺が見たいのでもいい?」
と言うので、わたしはうなずいた。

一緒に映画を観に行くことはもちろん緊張感を高めたが、魚のウロコのような模様のカットソーと、レンガ色のパンツを履いている歩の隣を歩くことも、わたしにはかなりの勇気がいった。
顔だって端整だし、清潔感もあるのに、この服のセンスだけは受け入れられなかった。
これはこれで、いいのだろうか。
わたしが無難な服が好きなだけで、見る人が見れば、これはイケているんだろうか。
そんなことを考えているわたしをよそに、
「じゃ、行こっか」
と言って歩は立ち上がり、そのパンツについた芝生を払った。

歩に連れていかれたのは、シネコンではなくて、昔からある小さな映画館だった。
上映されている映画は、テレビのCMではお目にかかったこともないようなマイナーなものだった。
わたしはこのような映画館には来たことがなかったので、きょろきょろと辺りを見渡した。
そして、重大なことに気づいた。

「ポップコーンが売ってない!」
わたしが、まるでまちがいさがしの間違いを見つけ出したかのようなノリでそう言うと、歩は吹き出した。
「みちるちゃん、おもしろい」
いやいや、ちっともおもしろいことなんて言っていない。
わたしにとっては大発見だ。

まだ、さっき吹き出したのが収まりきれてない歩が、
「みちるちゃん、上映中にポップコーン食べる派?」
と言うので、
「お腹が空いてる時は、食べる派」
と答えると、
「俺は、いかなる時も食べない派」
と言って、にやりとした。

歩と観たその映画は、わたしには理解不能だった。
わけがわからなかった。
そういう意味では、とても印象に残る映画ではあったけれども。
これを彼は、おもしろいと感じるのだろうか。

エンドロールを眺めながら、そんなことを思った。
他の客はそろそろと外へ出ていくのに、歩はいっこうに動こうとせず、ただじっとエンドロールを見つめている。
この人は、エンドロールを最後まで見る派。
心の中でひとりごとを呟いた。
そして、館内にぼんやりと明かりが戻ると、歩は立ちあがって伸びをした。
細長い体が、ますます細長く見えた。

「さ、行こうか」
そう促されて外へ出ると、歩は、
「どうだった?おもしろかった?」
と尋ねるので、
「う~ん……わたしには、ちょっと難しかった、かな」
と正直に告げた。

すると、歩は、
「うん。わけわかんなかったね」
と、さらりと言って笑った。
自分が観たいって言ったくせに。
なんなんだ、この人は。
と思った。

その辺りからだと思う。
どちらからも、
「付き合ってください」
なんてことは一度も言ったことはなかったけれど、わたしたちは、おそらく付き合っていた。
ある日突然、「彼氏彼女」になったわけじゃなくて、日を重ねるごとにそうなっていった感じ。
一緒に買い物に行ったり、お茶したり、マイナーな映画を観たり、図書館へ行ったり。

ただ、わたしが他の女性たちと少し違っていたところは、できるだけムードのある雰囲気を作り出そうとしなかったことと、夜は早々に帰宅するようにしていたことだった。
関係が一歩前進するのが、たまらなくおそろしかった。
歩のことを好きになればなるほど、自分の首を絞めているような、そんな気持ちになった。

ある日、わたしたちは大学のすぐそばを流れている川原を散歩していた。
夕日がきらきらと水面を照らして、ゆらゆらと揺れている。
辺りが全部オレンジ色に染まっているのを見ると、ああ今日もいい一日だったなぁ、なんてことを思う。
だけど、少し前を歩いている、わたしには理解できないぶっ飛んだ服を着ている歩を見ると、詩情漂う風景にUFOが不時着しているみたいでごちゃまぜで、なんだか変な気分になった。

ごろごろとした石の上を歩いて、水辺まで行こうとしている時に、わたしは石に足をとられてバランスを崩してしまった。
それにすぐ気がついた歩は、すかさずわたしの腕をつかんで、小さな危機を救ってくれた。
「大丈夫?」
腕をつかんだまま、優しいまなざしを向ける。
目が合った。
その視線を受け止められなくて、わたしはうつむいたまま小さくうなずいた。
歩はわたしの手をぎゅっと握り、水辺まで連れて行ってくれた。

「あ」
歩は何かを見つけたのか、突然その場にしゃがんだ。
「よし。つかまえた」
そう言って、わたしに見せたのはサワガニだった。
まるで子供のように、つかまえたサワガニをあちらこちらから眺め回している。
「持ってみる?」
そう言って、わたしの目の前にサワガニをかざすので、わたしは丁重にお断りした。
「子供のころさ、よくつかまえたよ」
「家の近くにサワガニがいたんだ」
「うん。たまに道路とか横断してるんだよ」
なんてことを言うので、
「うっそだぁ」
と言うと、わざわざわたしに向き直って。
「本当だって!犬の散歩してる時に見つけたんだもん。しかもそのカニったらさ、犬の鼻を挟んじゃって、大変だったんだよ」

その時、歩の手からサワガニが落ちた。
「あ」
サワガニは、チャンス!とばかりにその場から逃げていった。
わたしは、サワガニの行方を目で追った。
「わんちゃん、かわいそう。痛かっただろうね」
「そりゃあもう。悲鳴あげてたもん」

歩もサワガニを目で追った。
サワガニは、石の影に隠れてしまった。
川に目を戻すと、金色の水面の上をはねる魚を見つけた。
「今、魚、飛んだね!」
「うん」
わたしが興奮しているのを見て、歩は目を細めた。

しばらく水面を眺めていた。
魚たちは、自由気ままにはねているように見えた。
生ぬるい初夏の風が通り抜けていく。
せせらぎが、いやに大きく聞こえた。
「ねえ、みちる」
「なに?」
歩にちらりと顔を向ける。
それは本当に唐突だった。

「キスしても、いい?」
そう言って、わたしの頬に触れようとするので、わたしは無意識に一歩下がってしまった。
歩は、わたしに触れようとしたその手をゆっくり下ろし、
「ごめん」
と呟いた。
落胆しているのが、わかった。

やってしまった。
わたしは、歩を落胆させたいなんて思っていないのに。
体が勝手に逃げてしまう。
わたしだって、歩のこと、好きなのに。
なんで、できない?
歩は、あいつじゃないのに。
あいつじゃないのに……。

少し息苦しくなった。
体が思うように動かない。
どうしたらいいか、わからない。
わたしは、小刻みに何度も首を横に振っていた。
呼吸が少し荒くなった。
「みちる?」
歩は心配そうに、わたしの顔をのぞき込んだ。

「……さい」
「ん?なんて?」
歩は、穏やかにゆっくりと聞き返す。
「……ごめんなさい」
消えそうな声で呟いた。
歩は大きく首を横に振って、
「俺の方こそ、ごめん」
と言って、後ろからわたしを包み込むようにそっと腕を回した。

温かかった。
背中に、歩の鼓動を感じた。
ほっとした。
ほっとしたら、胸の奥につかえていたものが溢れ出てきて、わたしは思わず歩の腕をぎゅっとつかんだ。
涙が溢れて、止まらなかった。
ぽたり、ぽたりと、歩の腕にわたしの涙が落ちた。
歩は何も言わず、ただわたしを包んでくれていた。
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