“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ~わたしの夢は、優しい年上男性に夢の国で告白されること~
第9章 反応の結果

―人間の仕様です―・上



時計を見ると午前二時だった。
今この時間にできることは限られている。
まず、苦しそうだが眠れているゆめを起こさないように、静かにベッドから降りる。
郁人は体温計を探そうとして、この家にそれがあるかどうかを自分が把握していないことに気が付いた。

そもそも、自分は持っていない。
ゆめが持っているかどうかも、知らない。

ならば、考えるまでもなかった。

寝巻代わりのTシャツの上に、クローゼットから半袖のシャツを一枚取り出し、羽織った。
これで服のしわは多少目立たないだろう。

鞄に財布とスマートフォンを入れると、そのまま外へと出る。

夏の虫の音が、静かに響いていた。
大きな道路を渡り終えた後はすれ違う車もほとんどなく、程なくして一番近いコンビニの灯りが見えた。


入口のカゴを取ると、実測にも切り替えられるタイプの体温計、スポーツドリンク、ゼリー飲料と冷感シートを入れていく。

会計を終え、それらを鞄へと詰める。
横断歩道が赤の間に、素早く夜間救急の相談窓口について検索をする。
信号が青へと変わると、スマートフォンを鞄にしまい、再び家へと歩き出した。


帰宅するとすぐに、郁人は眠るゆめの額にそっと右手を置いた。

触れる熱は、先ほどよりも高い。

体温計を挟んだ瞬間から、測定完了までおよそ十秒。
軽いアラーム音を鳴らす体温計を確認した郁人の眉間は、わずかに歪んだ。

念のため、今度は反対の脇に挟んで測定する。

測定結果は誤差の範囲内で、どちらも四十度を超えていた。


「ゆめ」

郁人が静かに声を掛けると、薄くゆめの目が開く。

体温が四十度を超えたところで、様子見という選択肢は彼の中から消えていた。

「あ……いく……と……?」

浅い呼吸を繰り返しながら、辛うじて郁人を認識しているような状態であると判断し、すぐにそのまま調べた相談窓口へと電話を掛けた。


数分後、電話を切ると早速配車アプリを起動した。
受診を勧められた瞬間、彼の行動は決まっていた。

身体を少し丸め、短く浅い息を吐きながらぼんやりしている彼女に、クローゼットから取り出した自分のシャツを上から掛ける。
夏なのに震えている。
保温が必要だ。


「ゆめ、病院に行く。
 起きるのも難しいようなら、教えてくれ」

「……いく……と。……ごめ」

「謝らなくていい。
 誰だって体調を崩すことはある」

郁人の言葉に、熱でかさついたゆめの唇が小さく震え、そして言葉の一部だけが聞こえた。


――“できなかった”、と聞こえたその言葉よりも、今の郁人にはゆめの体調の方がずっと重たかった。



タクシーで夜間救急を受診後、処置室で点滴を受ける彼女の顔をじっと見つめた。
肌の艶も、目の下の黒ずみも、明らかに無理をしていることを語っていた。

研究でこの状態になることはあるが、自分が好きで選んで追い込みをかけるのと、追い込まれるのでは違う。

ゆめだけに負担を掛けていた現実を改めて見つめながら、この状況をどう変えていくか、いくつか改善提案を構築していく。


早急に手を入れなければならない。

この状況は再現性がある。


点滴後、医師からは家で様子を見るように言われた。
悪化した場合と翌日以降熱が下がらない場合は、日中にかかりつけ医を受診するよう勧められ、一日分だけの解熱剤と総合風邪薬が渡される。
感染症についての検査もしたいならそこでと言われた。
結局何からの熱かははっきりとしないまま、家へと帰される。

点滴のおかげで少し体温も下がり、顔色も戻った。
だが、今日の彼女は要観察対象だ。

帰りのタクシーの中、東の空が明るむのが見える。
今は少しでも早く、落ち着いて寝かせてあげたかった。


翌日。
朝一で内科を受診し、点滴を受ける彼女を任せて研究室へと向かった。


研究室へ入ると、挨拶後まっすぐに教授の元へと向かう。

「昨日はお休みをいただき、ご迷惑をお掛けしております。
 今日も昼には一度抜け、また午後に来ます」

「彼女、大丈夫なのかい?
 研究を進めるためにも健康は大切だ。
 保坂さんには、万全になってから出てくるように伝えて」

研究の進みは自己責任。
だが、決して突き放さない。
それがこの人のスタンスだ。

「わかりました」

「……しかし、沢木くんがねぇ……」

含みのある一言。

「何か?」

「……いや、僕はいい傾向として見ているよ。
 君がいないと僕のプレパラート作りが捗らないんだ。
 沢木くんまで体調を崩さないように、おかしいと思ったら無理せず早めに休みなさい」

以前なら、その言葉はありがたい言葉であると認識した上で無視しても問題ない言葉だった。
だが、今は少し違って聞こえる。

「君は常に壊れるまで動き続ける人だから。
 研究者としてそういう動きを求められる場面はあるが、今じゃない」

「……わかりました」

その言葉を、今度こそ無視しない。


病院にゆめを迎えに行くと、そのままタクシーを呼んで連れて帰った。
まだ熱も高く、足取りも怪しい。
腕を支え、段差の前では必ず声を掛けた。

エレベーターのボタンを押す。

部屋は三階で、入居時にそこまで必要を感じていなかったが、こういう場面では便利だと思った。

家に入るとすぐにゆめを寝かせ、ベッドサイドにスポーツドリンクとゼリー飲料を置く。
冷却シートをおでこに貼ると、ゆめの強張った表情が少し緩む。

もう一度体温を二度ほど測り、どちらも八度後半を示していたのを確認する。

高熱ではあるが、昨日ほどの危機感はもうない。
適切な医療処置も受けた後で、あとはゆっくりすることができれば回復するだろう。


「……郁人」

ゆめが、ベッドの中から、弱弱しい声で呼ぶ。
ゆめの表情は、今にも泣いてしまいそうなほど、脆い。

「……あと、ちょっとだったのに」

「何がだ」

「一か月をまずは目標にして、継続できるように頑張ろうって思ってた……。
 ……ごはん、昨日作れなかった。
 ……二日、掃除機掛けてない。
 洗濯物も、していない……できなかった……」

肩を震わせながら、自分を責めるゆめを郁人は静かに見つめる。

「昨日はあるものを自分で調理した。
 洗濯物は、カゴにあったものは昨日すべて洗って干した。
 掃除は……二日しなくても人は死なない。
実験済みだろう」

郁人の声はどこまでもいつも通りで、変わらない。

「……また、あの状況が再現されたら……!」

「再現性はもうない。
 環境と人間側の、両方の初期設定を変えた」

「……っ」

ゆめが、布団を両手で掴む。

その様子を見つめ、郁人は一度、短く息を吐いた。

「お前が倒れたのは、怠けたからじゃない。
 限界を超えたからだ」

「……でも」

「限界を把握できなかったのは、ゆめだけの責任じゃない。
 傍にいる人間として、俺の観測不足でもある」

郁人が、じっとゆめの目を見つめながら続ける。

「……一か月、っていう目標を立てたこと自体は、悪くない。
 ただし、継続条件を修正する」

「……修正?」

ゆめから視線を逸らすことなく、郁人は頷いた。

「体調が落ちた時点や、そのときの研究の進み具合。
 外的要因に合わせて、一日の目標を変更する。
 それを失敗と定義しない。
 それだけだ」

「……それは、ちゃんと“生活できている”と言えるかな」

「むしろ、今の条件よりも望ましいと思う。
 まなさんも言っていただろう。
 お惣菜やチューブのしょうがの話のときに。
 頑なにそれを許可できなくなるのは苦しくなると。
 その人の働き方や体調に合わせて、変えていい部分なんだ」

郁人の言葉に、ゆめは静かに頷くと、少し考え込むように目の焦点が郁人から外れた。

郁人はゆめの頭に手を当て、一瞬だけ撫でるように触れると、そのまま立ち上がった。

「研究室に戻る。
 何かあったら連絡を」

「……ありがとう」

「いってくる」


夜、いつもより早めに研究室を後にする。

ゆめ宛てにと、研究室の面々から渡されたスポーツドリンクや栄養ドリンク、ゼリー飲料を手に持って。


ゆめに体調確認と今から帰るという連絡を送ろうと、メッセージアプリを起動する。

すると、新着メールの通知が来ているのに気がついた。

メールを開くと、案の定母親からのものだった。
積極的に開きたくはないが、避ける訳にもいかず、件名をタップする。


『件名:確認です

ゆめさんからの連絡が途絶えました。
体調を崩したんじゃないかと心配しています。

今は無理をさせないよう、様子を見てください』


(……そんな頻繁に、連絡を取り合っていたのか)


わかりました、の一言だけを返信すると、今度はゆめへとメッセージを送る。

ゆめに食べさせられるような、やさしい食べ物のレシピはないかと検索していると、音を立てて研究室の扉が開いた。


「あれ、沢木さんまだいたんですか」

「ああ」

佐伯が村瀬と共に扉から出てくる。

「ゆめちゃんに連絡ですか?
“今帰る”の連絡とか、まるで同棲しているカップルか夫婦みたいですね」

「いや、同棲しているんだろう。
 最近同時に弁当を持ってくるようになったし、中身も同じだった」

村瀬の観測結果に、佐伯が何か言いたげな表情でこちらを見る。

言いたいことは、なんとなくわかる。


「……研究室内恋愛、ごめんだってあなたも言っていませんでしたっけ?」

「……恋愛はしていない。
 夫婦になるつもりだから、問題ない」

「いやいやいや……。
 ……まぁ、いいか。
 ゆめちゃん無理させないでくださいね」

佐伯の言葉に、村瀬も頷く。

「その野菜たっぷりの雑炊、食べやすそうです」

村瀬の一言に、思わずスマートフォンを隠す。

「うす暗い廊下ですから。見えただけです」


帰る二人の背を見送りながら、この日の買い物リストと最適な帰宅経路を頭の中で組み立てた。


◇

目を覚ました時、部屋の中は薄暗いままだった。
だけど、小さく部屋の外から物音がする。

(……郁人? 帰ってきたのかな……)

今の時間を確認しようと、枕元のスマートフォンを手探りで探す。
時刻は思っていたほどは遅くなかったが、それでも随分と眠り込んでしまっていた。

スマートフォンには、郁人からのメッセージ受信を知らせる通知が光っていた。

内容を見ようとしたところで、メールのアイコンが目についた。

(あ……郁人のお母様に、メール送ってない……)

最近では毎日のように、“今日はこんなご飯を作りました”と写真を添付したり、“お店でこんなものを見つけました”など発見を送ったり、ちょっとしたことを共有して話す仲になっていた。
郁人の母が、それらに毎回すぐに返事を返してくれるのも、嬉しかった。

それも、止めてしまった。


『件名:ご連絡が遅くなりました

少し体調を崩してしまい、数日ご連絡が止まりました。
今は点滴を受けて、家で休んでいます。

続けられると思っていた生活が、思っていたより続きませんでした。


落ち着いたら、またご連絡いたします』


メールを送信する。
思っていたよりもすぐに、返信は来た。

『件名:Re:ご連絡が遅くなりました

体調が悪い中、連絡をありがとう。
やはりそうでしたか。

無理をしたときに、きちんと止まる判断ができたことは悪くありません。
今はゆっくり休んでください。

また落ち着いたら、教えてください』


郁人の母からの返信を見て、ゆめは少しだけ肩の力が抜けた。
やはりだめでしたか、とか、残念です、という言葉を想像していた。
けれど、中の文面は倒れたことそのものよりも、その時どうするのかに焦点が当てられていたように感じる。

(……郁人が、無理しない前提条件に変えて、頑張ってくれたから)

熱で朧気なところも多いけれど、彼が気付いて引き受けてくれたから、今がある。

急激に、彼へと会いたくなった。

ベッドから、一歩を踏み出す。
身体は重いけれど、ちゃんと歩けた。


寝室の扉を開けると、鰹節と野菜が煮える、美味しそうな匂いがした。

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