“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ~わたしの夢は、優しい年上男性に夢の国で告白されること~
―人間の仕様です―・下
ゆめが倒れた日から、半月が経とうとしていた。
博士論文という壁が、はっきりと形になって郁人の前に立ちはだかる。
ゆめは彼より先に帰宅することが多くなった。
彼の帰宅時間が日付を跨ぐこともある。
彼が戦っているのは、単純な“論文を書ききれるかどうか”ではないことは、同じ研究室のゆめにはわかっていた。
完成させることそのものは彼には難しくはない。
問題は、その質が彼の納得の行く形となるかだ。
どちらかというと、自分自身との戦いだ。
できるだけ美味しいものを、体力が付くものを、彼への応援として用意したい。
そんな思いでいたゆめが見つけたのは、地元で採れた有機野菜の即売会のチラシだった。
◇
土曜日の夜。
郁人はなんとか区切りをつけて、比較的早めの時間に家へと帰り着く。
玄関で靴を脱ぎ掛けたまま、郁人は動きを止めた。
ゆめのものではない靴が一組。
すりガラスの扉の向こうには、ゆめの楽しそうに弾む声が響いている。
そして、その声に混ざって聞こえてくる声には、嫌というほど聞き覚えがあった。
◇
「……ただいま」
リビングの扉が開き、郁人の声がした。
その声にゆめの顔に喜色が広がる。
「おかえりなさい!」
満面の笑みで出迎えたゆめの後ろから、「お邪魔しているわよ」と彼の母が声を掛けた。
「今日ね、有機野菜の即売会があるって聞いていたから、予定が合えばってお声がけさせてもらっていたの。
せっかくなら一緒にお料理ができたらいいなって思って、思い切ってみて良かったです!」
ゆめの言葉に、彼の母も頷く。
「いろいろとお野菜が安かったのよ」
大きなピーマンを使って作られた肉詰め。
購入したサラダ用野菜たちで作った、たくさんの品目入りのサラダ。
新鮮な人参で作ったポタージュは、ブレンダーで丁寧に仕上げた。
まなにもらったレシピの中から、比較的簡単なものを拾いあげて作ったメニュー。
肉詰めは中身が外れそうで技術的には難しかったけれど、彼の母と話しながら作るのは楽しかった。
楽しそうに話しかけるゆめに、穏やかな様子でそれを受け入れる郁人の母。
その様子を見つめながら、郁人は「……そうか」とだけ呟き、部屋に鞄を置きに行った。
食後。
三人でお茶を飲みながら、ほっと一息つく。
宇治茶の香ばしさが、頭の奥をすっきりリフレッシュしていくようだった。
ふと、郁人の母の目線が、テレビ台のすみに並んで置いてあったアクリルキューブに注がれる。
いつかの国立科学博物館で購入したカリウムとナトリウムの模型。
「きれいですよね」
それに気が付いたゆめが、同じように目線をキューブに向けて言う。
郁人の母は頷くと、視線をカップへと戻した。
「……それぞれが、無理なく立っているようで、安心したわ」
単体では不安定な金属であるカリウムとナトリウム。
誰かと一緒になると、その二つは途端に安定し、人に必要不可欠なものとなる。
その言葉に、ゆめは郁人と顔を見合わせて、この日一番の笑顔で笑った。
郁人が食器を洗い、ゆめが拭いていく。
その姿を食卓の椅子に座って眺める彼の母の目は、温かな色を帯びていた。
その後、帰宅する彼の母を見送り、部屋に戻ってくる。
玄関で脱いだ靴を揃えながら、郁人が話しかけてくる。
「……前は、誰にも見せられないような家だったな」
「確かに。
前だったら、とてもじゃないけどお母様にお声がけする発想自体がなかったかな。
今日はたくさん、お話ができて楽しかった!」
嬉しそうに笑うゆめに、自然と郁人が顔を寄せた。
ほんの一瞬の、短い触れ合い。
だが確かに触れた感触に、ゆめの頬が薄く朱に染まる。
「……もっと、してもいいですか?」
「……っ!」
郁人の目が揺れる。
一瞬のためらいの後、すっと視線を足元に落とした。
「……場所。
ちゃんと部屋に行こう」
その日、久しぶりにゆめは郁人に満足が行くまで触れた。
抱き寄せられた腕の力強さと体温が、何よりも愛しかった。
◇
夜間。
外に響く虫の音が、完全に秋の虫の音に変わったころ。
郁人は久我教授に呼ばれ、進路についての話を受けていた。
「君の選択が一番だから、進路設計に合わせて選んでもらって構わない。
もし君がこちらに残っても良いと思っているのならば……来年度の体制に、空きがある。
君の論文の仕上がり次第では、話を進めてもいいと思っている」
郁人はその言葉をしっかりと受け止めた後、ゆっくりと答えた。
「……論文を出してから、改めて判断させてください」
その言葉に、教授は満足そうに頷いた。
◇
ゆめは気だるい微睡みの中、郁人の前髪を一房摘まんでいた。
「髪、また伸びたね」
「……切りに行く時間がもったいない」
「目に入って邪魔そうだけどな……。
毎回ちょっと手で除けているよね。
よかったら、わたしのピン貸すね」
半分冗談で提案し、彼の前髪を軽く留める。
思ったよりも良かったのか、郁人は外そうとしなかった。
連日の論文作業で、彼は疲れているはず。
ゆっくり休んで欲しいと思うのに、求められたら断る選択はゆめにはない。
国内外を問わず、たくさんの研究施設から声を掛けられているのを、本人は言わないがゆめは知っている。
それらの選択肢はすべて、博士課程を卒業するのが前提だ。
研究者としての人生を彼が生きていくことは、ゆめにも確定事項のように思えた。
彼が将来どこで研究をするかはわからなくても、どこにもその席がないなんて未来だけは想像ができない。
「年末年始……ゆめは一人で実家に戻ったらいい。
その代わり……来年の三月には、二人揃ってもう一度お願いに行こう」
「……うん。
三月、会いたいって伝えておくね」
「ありがとう」
郁人は満足そうに頷く。
郁人の言葉が途切れ、そして穏やかな寝息に変わったのを確認して、ゆめは彼の肩までしっかりと布団を引き上げた。
今度こそ、二人できちんと生きていける姿を示せるように、毎日を丁寧に生きていこう。
◇
あの倒れた日から、季節は一つ進んだ。
十月に入ると、週のうち郁人が帰ってこない日が増えていく。
朝、おにぎりを握って袋に詰めた。
お昼のお弁当とは別にそれを用意し、それなりの荷物を抱えて登校する。
研究室の扉を開けると、久我教授と真剣に資料片手に話をしている彼の姿が目に入った。
挨拶をすると、二人とも振り返って簡単に挨拶を返してくれる。
そんな郁人の頭に、ゆめのピンが付いていることに気が付いて少し可笑しくなった。
彼の机に、おにぎりの入った袋とお弁当箱を置く。
それから、思考を研究モードへと切り替え、昨日のデータを基に仮説と検証を繰り返した。
金曜日のお昼、郁人の休憩に合わせてご飯を食べていると、スマートフォンが震えた。
郁人に一言断りを入れ、画面を確認すると郁人の母からのメールだった。
「やった!」
思わずこぼれた呟きに、郁人が不思議そうにこちらを見つめる。
「郁人のお母様を土曜日お誘いしていたの。
実は、ミュージカルのチケットをもらっていたんだけど、ペアだったから……。
予定がぎりぎりまでわからないって仰っていたから、期待してなかった分嬉しくて」
「そうか」
郁人の口調はいつもと同じなのに、どこかその言葉がやさしく聞こえた。
「ごちそうさまでした」
思ったよりも早くお弁当を片付け始める彼女に、郁人は不思議そうに首を傾げる。
「まさか、今日の昼はそれだけなのか?」
「うん。
ちょっと朝食べ過ぎたのかな。
たくさんはいらない感じ」
「……ちゃんと眠れてはいるのか?」
前回のように倒れることがないようにと、郁人の目が少しだけ観察者の目に変わる。
ゆめは苦笑しながら答えた。
「うん。
むしろ寝すぎなくらい寝ているから、心配しないでね」
ゆめの言葉に頷くと、再び二人は研究へと戻っていく。
◇
夜の空気が冷たく頬を撫でていく。
劇場の中は、心地よい熱気に包まれていた。
まだどこか、その余韻を引きずりながら、自然と話題は今見たミュージカルのものへとなっていた。
家の傍までたどり着くと、自室の灯りが付いていることが、外からわかる。
今日は週末だから、帰ってきてくれたんだと思うと、やっぱり心が満たされていく。
そんなゆめを見ながら、郁人の母はほんの数ミリ、口角を上げた。
「ただいま!」
彼の母と共にリビングに入ると、彼がキッチンに立って鍋をかき混ぜていた。
「……おかえり」
「あ、カレー!
疲れているのに、気を遣わせちゃってごめんね」
「いや。もう温めてルーを入れる手前のところまでは作ってあったから」
ふわりと、漂ってきたカレーの良い香りが、どこか引っ掛かる匂いに感じられた。
「……いつものルーだよね?」
「家にあったのしか使ってない」
「だよね……」
冷蔵庫からサラダも取り出し、テーブルの上に並べる。
三人で手を合わせて食べ始める。
話題は、先ほど見たミュージカル。
ゆめにとってミュージカルは初めての体験だったので、その興奮も合わせて伝える。
時々入れてくれる彼の母からの相槌が、ますますゆめを饒舌にした。
「ゆめ、さっきからしゃべってばかりであまり食べていない」
郁人に指摘され、改めて自分の皿に視線を落とす。
サラダは食べやすくて完食していたが、カレーがやっぱりあまり進まない。
「なんか、カレーに関しては少しで満足してしまって……。
せっかく用意してもらったのに、ごめんなさい」
「……いや。俺は別に構わないんだが……」
心配するように言いよどむ郁人の声。
楽しかった食卓に、一瞬沈黙が落ちる。
「郁人」
呼ばれて、郁人が自身の母を見る。
「ゆめさん、最近こんな感じなの?」
郁人は思い出すように少し時間を置いた後、頷いた。
「学校でも、あまり食べていなかった。
毎食一緒に食べられているわけではないが、少し痩せた気もする。
……自己申告では、睡眠は取れているらしいが」
「そう」
それを聞いた後、彼女は珍しく少しだけ躊躇う。
郁人、ゆめと順に見つめ、そしてそれを口にした。
「……違ったなら、それはそれでいいの。
季節の変わり目だし、体調の変化としては珍しいことではない」
慎重に、言葉を置いていく。
「……郁人。
心当たりがあるのなら、はっきりさせた方がいいわ」
その言葉が何を意味するのか、わからない二人ではなかった。
「え……?
さすがにそれは……考えたこと、なかったです」
まさか、と笑うゆめと対照的に、郁人はいつも通りの温度でゆめを見つめる。
「……確認しよう」
急に落とされた、現実感のない話題。
不安とも期待とも取れない動悸が高まる。
初めて手にした検査薬の箱は、思ったよりも軽かった。
説明書を読んでから、お手洗いへと席を立つ。
一人になった途端に、彼の将来を不安定にするんじゃないかという不安に襲われる。
顔を上げると、目の前に“世界一きれいな周期表”のポスターが目に入る。
ここに引っ越してきたときに、二人で貼ったものだ。
ベリリウムの欄をじっと見つめ、そして覚悟を決める。
説明書にあった一分という時間を待つこともなく。
――結果は、すでに明らかだった。