“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ~わたしの夢は、優しい年上男性に夢の国で告白されること~
―なお、セーブデータは存在しません―・下
たどり着いた先は、市内の個人病院だった。
義父が受付で名前を言うと、面会の札が渡された。
産婦人科の入院病棟は、赤ちゃんの泣き声で溢れていた。
その泣き声を聞きながら、奥の個室へと歩いていく。
名札を確認して、部屋をノックすると扉を開けて陸が出てくる。
「……お義父さん……郁人さんまで来てくださったんですね。
わざわざ遠いところ、ありがとうございます」
にこりと、人好きのする柔らかい笑顔を浮かべて彼が礼を述べる。
その言葉を聞いた瞬間は、いつもの彼に思えた。
「まなも喜ぶと思います。
ちょっとまだ、起き上がるのは難しいと思うのですが……。
彼女、必死で二人分育てていて、すごいですよね。
僕も喜びが二倍で……今から楽しみで!
つい、職場でもしゃべりそうになって慌ててやめました!」
あはは、と笑う顔が、あまりにきれいだった。
これは作っている人の笑顔だ。
困ったような笑顔を浮かべて、義父が郁人の顔を見る。
郁人は、頷きで応えた。
「……私まで入るとまなさんが気を遣うでしょうから。
どうぞ、お義父さんと陸さんは病室に」
郁人が遠慮して部屋の外で待つと伝えるが、陸が気にしないでと引っ張っていく。
気にするかどうかは、本来陸が判断することではない。
それくらい、いつもなら彼の方がよく気が付いて動くはずなのに。
まなに申し訳ないと思いながらも、振りほどくのもまた失礼かと思い、されるがままだった。
病室内は驚くほど静かだった。
扉を閉じると、廊下の賑やかさが遮断される。
小さな物音一つが響きそうで、足音すら気にして歩く。
この病院全体が、女性的なデザインになっていて、待合から椅子が猫足ソファーだなとは思っていたが、病室はもっとその傾向が強い。
幸い、ベッド周りには天蓋があり、直接まなの様子が見えないようになっていた。
カーテンの中には入らないような位置で立ち止まり、まなの視界に入らないようにする。
「まな、お義父さんと郁人さんが来てくれたよ」
甘い、優しい声。
なのにそれを怖いと感じてしまった。
「まな、陸くんもおめでとう。
直接それを言いに来たよ。
……まなは無理にしゃべらないでいいからね」
同じように優しい声なのに、義父の声は怖くはなかった。
陸が何か話すよりも前に、まなの弱弱しい、力の入っていない小さな声が聞こえた。
「……お父さんも……郁人さんも、ありがとう。
ちょっと今……たくさんしゃべれなくて。
……気を遣わせて、ごめんなさい。
ゆめは、大丈夫?」
郁人が距離を保っていてくれていることを、まなは察しているようだった。
「ゆめは幸い、つわりは軽めでした。
今はつわりも落ち着いて、食欲が増えて困っていると言っています」
郁人が答えると、義父も笑う。
「そうそう。
昨日一緒に夕飯を食べた時なんて、おなかの子のぶんまで食べつくす!って勢いでおいしそうに食べていたよ」
その言葉に、まなが安心したように息を吐く。
陸が笑顔のまま、手だけが白くなるほど握りしめられているのが見えた。
きっと、自分のことよりもゆめを気にしているまなの姿が痛いんだろう。
郁人がそれを指摘することはなかった。
今ここで言葉にしたところで、気まずさを産むだけで何も変わらないだろうと判断した。
「まな。
陸くんが傍にいてくれて、良かった。
この生活は、ずっと続くものではないからね。
必ず、終わりは来る」
「……うん」
陸の肩が、小さく震えた。
その言葉はまなに言っているようで、実は陸の方に向けられているようだった。
「……陸くん。
……今日は、お父さんと、郁人さんと、……もう家に帰っていいよ。
私、……疲れちゃったから、休んでいいかな……」
疲労の滲む声。
だが、きっと本質はそこにない。
付きっ切りの夫に休んで欲しいのだろう。
だが、陸はそれを正しく受け止めきれない。
「……え?
俺、邪魔だった……?
俺がいると、ゆっくり休めなかった?
……何が、だめだった……?」
震える声で、重ねて確認する。
義父は陸には何も言わず、ただ陸の肩を叩いた。
そしてそのまま、まなに「明日、帰る前にもう一度くるね」と声を掛ける。
まなは、「ありがとう」と答えると、こみ上げてきた吐き気に耐えるようなくぐもった声を出した。
陸は駆け寄ろうとして、でも先ほどの言葉が頭に残っているのか、止めた。
彼女の洗濯物らしき荷物の入った袋を掲げ、
「何かあったらメッセージ送って。
……何もなくても、……送って」と声を掛ける。
それはまなに負担なんじゃないか、と静かに思ったが、これも指摘することはなかった。
義父の心配は、まったく的外れではなかった。
陸に感じるものは、違和感なんて生易しいものではない。
彼は、もう――正常な判断の輪郭を失い掛けている。
廊下に出ると、再び賑やかな明るい赤ちゃんの泣き声に溢れていた。
この環境は、何も間違っていない。
けれど、出産以外で入院する患者には、確かに堪える環境ではある。
廊下に流れる人気曲のオルゴールを聞きながら、陸が廊下の奥にある天使の絵のステンドグラスを見上げて言葉を零した。
「この病院、女性人気が高いらしいんです。
一貫してかわいらしい感じですよね。
……でも、出産はここではできなくて」
ぽつり、と語られた言葉。
内容のわりに、話し始めの彼は明るい声だった。
「双子なんで、出産は大きな病院で、早めに管理入院になるそうです。
看護師さんに聞いたんですけど、その大きな病院って昔五つ子が日本で初めて生まれた病院だそうです。
だから……双子は五つ子に比べたら、発生確率も多いし、実績も多い……。
うちの子の場合は、二卵性だから……リスクの低い双子で……大丈夫だって……」
段々と声が小さくなる。
普段から、自分に言い聞かせている言葉なのだろう。
出産に絶対的な大丈夫がないことくらい、郁人にだってわかる。
ゆめと子ども、どちらも無事である絶対な保証はない。
だが、医療は進んでいる。
ならば、夫婦で話し合い、現在の時点で出来うる限りの最適解を選んでいくより他ない。
問題が発生したら、その都度併せて選び直す。
出産が怖いのなんて、当たり前だった。
陸が躓いているのは、夫婦の話し合いができないからなのか、それよりももっと根本なのか。
「……至らない夫で、すみません。
家に帰ったら、たぶん……今よりも、もっと失望されると思います。
……それでも、良かったら。
うちに泊まっていってください」
義父の目が少し伏せられた。
元々は病院に近いビジネスホテルを探すつもりだった。
ネットで検索したら市内のホテルは意外と空きがあったので、近場を探すためにもとりあえず保留にしていた。
義父の視線が郁人と絡む。
郁人は、頷いた。
「……ありがとう。
お言葉に、甘えさせてもらうよ」
陸の運転で、彼の家へと向かう。
運転だけは、相変わらず丁寧で、安全運転だった。
◇
家に入ると、彼がごめんなさいと呟いた。
前に来た時と、印象が全く違う。
これは、いつかの自分たちの“効率”という言葉で粉飾したあの部屋を彷彿とさせる。
仕事の資料が、仕事机に乱雑に積みあがり、一部崩れていた。
流しに置かれたままの、一組の皿とコップ。
食卓の上には、ポストからそのまま持ってきて置いただけの郵便物。
だが、衣服などは床に一切落ちておらず、まなの服を毎日洗って交換するために、洗濯は手を抜いていないのだろうことが伺える。
まなの生活を支えるため、仕事すらも最適化した結果が今のこの部屋なのだろう。
そこには、彼自身を置き去りにして形作られた、まなへの愛だけが残っていた。
「……ごめんなさい、驚かれましたよね。
……とりあえず、こたつにでも入ってください」
言い訳ひとつせず、リビングのこたつの上に置かれていたものを纏めて仕事机の上に運んでいく。
こたつの上に置かれていたのは、おそらく母子手帳交付時にもらったと思われる、市町村からのお知らせ類だった。
郁人ですら、一度目を通してそれきりのしおり類も、きっとこの男は読み込んだ。
読み込んだところで今の状態からの脱却はできないだろうに、それでも父親として何かしなくてはとあがいたのだろう。
夫という立場をそつなくこなしているように見えた。
だが、裏側では彼も必死でそうなるように努力していたのだ。
それは、決して悪いことではないはずなのに、真面目すぎて考えすぎて自分で自分を思考の地獄へ叩き落す。
二人がそれぞれの辺に座って落ち着いたところで、陸がお茶を淹れて出してくる。
白桃の香りがついた、フレーバーティー。
「ああ、懐かしいね。
これはまながよく淹れてくれたものだ」
カップに注がれたお茶の香りを、楽しむように義父が言う。
「白桃ウーロン茶です。
今のまなさんには飲めないので……僕たちで」
「意外と、妊婦でも飲めるデカフェの茶葉も売っている。
退院したら、探してみると良いかと」
ゆめが母と買い物に行き、買ってきていたのを思い出しながら郁人が言う。
何もかもをだめだと諦めることもない。
「……そうなんですか?
早速探してみますね」
陸がにこりと笑う。
笑わなくていいのに。
「……陸くん」
義父が、陸の顔をしっかりと見つめて名前を呼ぶ。
笑顔を浮かべたままの陸が、そちらを見る。
「……僕は、君が今抱えているのと、同じ恐怖を知っている」
陸の笑顔が凍り付き、表情がなくなっていく。
三つ子の父は、自分の方が大変だとも、君は甘いとも、何も言わない。
ただ、怖かったという事実だけを、置いていく。
「一卵性の三つ子。
リスク。
三人を、同時に育てるプレッシャー。
色々話を聞かされる中で、日常が一気に壊れる恐怖もあった。
一言言えるのは、生まれるまでも、生まれてからも。
恐怖はずっとついて回った」
陸を救う言葉ではない。
どちらかと言うと、地獄が続くことを前提にした言葉だった。
「一番堪えたのは、妻に掛かる負担だった。
つわりもひどかったし、後期に入ったら管理入院という名のほぼ動けない生活。
通常の妊婦と比べても大きすぎるお腹。
帝王切開の傷。
これらは美談ではない。
だが、妻は笑っていたんだ……傷は勲章だと。
そんな言葉に、自分が小さく感じた」
陸が、小さく震える。
言葉に敢えてしなかったことすべてを、他人の言葉で引き出されてしまった。
郁人が、静かに目を伏せる。
双子と同じ土台に乗るつもりはないが、自分だって怖くないわけではない。
「とりあえず、今日は三人で過ごそう。
陸くんは一人じゃない」
陸が、義父と郁人の顔を順に見つめる。
そして、ゆっくりと項垂れた。
涙はない。
ただ、顔からは笑顔が消えた。
それでいい。
とりつくろわないといけない場面はこれからいくらでもある。
でもそれは、今ではない。
お手洗いを借りた。
相変わらずきれいに整えられ、人感センサーの付いたヒーターが足元をそっと温める。
こだわりメーカーの温水便座と言っていただけあって、座り心地も悪くない。
一輪挿しに二輪並ぶ、薄紅色のチューリップ。
茎はしっかりとまっすぐで、項垂れていない様子から、生けられてそんなに時間は経っていない。
これを生けたのは陸だろう。
どんなに不安でも、もう双子を受け入れている。
その日、三人こたつで雑魚寝をした。
翌日、昼からの面会時間に合わせてまなのところへ行く。
陸の顔からは、不自然な笑顔は消えていた。
まなに声を掛けた後、京都へ帰る前。
病室を後にしたところで、陸が改めて礼を述べた。
その時に浮かべた笑顔には、あの気持ち悪さはなかった。
「本当に、二人ともありがとうございました」
彼の恐怖は消えてはなくならない。
また、きっと沈む。
だからこそ。
「陸さん」
「はい……?」
「怖いのは、異常じゃない」
淡々とした郁人の声。
陸は驚いたように目を丸くして、こちらを見ている。
「俺たちに、特別な利害関係はない。
怖さを共有する相手には、向いていると思う」
メッセージアプリの登録用QRコードを差し出す。
陸はそれをそのまま読み取った。
「……ありがとうございます」
郁人は頷きだけで返す。
その様子を、二人の義父は優しい笑顔を浮かべて、見守っていた。
◇
ゆめは母と二人、四条河原で買い物を楽しんでいた。
その時、ゆめのスマートフォンがメッセージアプリの通知を知らせる。
「あ、郁人たち夕方には帰ってくるって」
「あら、そう、良かったわ。
郁人くんを突然巻き込んでしまって、ごめんなさいね」
母が穏やかに笑う。
「ううん、大丈夫だよ。
本当に嫌なら絶対に行かない人だから、問題ないよ。
……郁人、やさしくなったよね」
研究室で挨拶にも出てこなかった、学部生の時のことを思い出す。
「あら、彼はもともと優しい人だと思うわよ?」
母の言葉に、まだただの先輩と後輩だった頃。
大雪の降った日にお湯で手を温めてくれた日のことを思い出した。
「……うん、そうかもしれない。
言葉選びは下手だけどね」
母と二人、笑い合う。
二人が帰ってきたときに食べられるようにと、食事の買い物をして家へと帰った。