“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ~わたしの夢は、優しい年上男性に夢の国で告白されること~
第13章 笑顔の観測
―その表情は反則です―
京都の三月は、後半になってもまだどこか風の冷たい日々が多かった。
博士課程の修了式は、滞りなく終わった。
形式的な挨拶と、形式的な拍手。
どんな服を着ていても、彼は無表情だった。
ゆめは身体を冷やさないように、厚手のコートを着てその門出に立ち会った。
二人並んで研究室への道を歩く。
ところどころ、早咲きの桜の木が見えるのが、春らしさを少しだけ添えていた。
研究室に入ると、みんなが温かい拍手で迎えてくれる。
それすらも、表情を変えないまま軽く頭を下げるだけで受け入れていた。
「ゆめちゃん良かったね。
これで旦那の無職回避!」
佐伯さんの軽口に、郁人は「そんなことにはならない」と淡々と告げる。
その温度差がおかしくて、ゆめは思わず笑ってしまった。
「四月からは、沢木さんじゃなくて……沢木先生?」
小さく首を傾げながら、高城さんが呟く。
その言葉に、佐伯さんと村瀬さんが「沢木さんが評価する側に回るの嫌だ」と言い始める。
そんな様子にも変わらぬ表情で淡々とし続ける郁人に、教授が笑う。
「まぁ、呼び方は何であれ今まで通り沢木くんは沢木くんだ。
なんだかんだ君たちも、今までも彼に意見をもらいたがっていたじゃないか。
僕としては、彼がこちら側にいることで無駄がなくなるから助かる」
周りに必要とされている彼の姿を見ることが嬉しくて。
ゆめは穏やかに笑った。
◇
郁人の父から、卒業祝いの食事に招かれた。
四条河原にある、居酒屋の個室なのは、郁人本人がドレスコードのあるような畏まった店を好まないからでもあった。
「いやー、めでたいね!
郁人卒業おめでとう!
そして就職おめでとう!!」
グラスを合わせる。
ゆめはノンアルコールのカクテルを一口含む。
甘すぎるくらいの濃厚な果汁が口の中に広がった。
「出産祝いの前に、色々渡したいと思っていたからちょうど良かったよ!」
紙袋三つを押し付けられて、郁人は言葉にしないが呆れているのだろうなと感じた。
前に子どもの性別を聞かれ、答えたまでは良かった。
まさか、たくさんのブランドものの洋服とおもちゃ類を、一切の相談なく渡されるとは思っていなかった。
加減の知らないプレゼント攻撃に若干引きつつも、これも祝福の一つだと思うと悪い気はしない。
ちょっと……困りはするが。
相変わらずしゃべり倒す彼の父に、彼の母は完全無視である。
「ほらほら、見てごらん、このくま耳コート!」
取り出されたコートに、思わずゆめは笑ってしまった。
物心つく前、同じようなくま耳のコートを着せられた郁人を想像して。
帰り道。
郁人が可愛くて仕方がないのだろう、彼の父が酔いも相まって積極的に絡んでいく。
成人した息子に絡むその姿は、郁人でなくても鬱陶しいと思うだろう。
最小限手を振るだけで振り切ろうとするその姿を、後ろから苦笑いで見守る。
「……本当に。加減を知らない人」
呆れたような言葉なのに、どこかやさしさを孕んだその言葉には、きっとゆめが知らない歴史がある。
「ゆめさん。
腰痛が出やすい時期でしょう?
この時期は、思っている以上に身体に疲れが溜まりやすいから。
無理はしないで休んで」
ゆめに向けられた視線は、郁人と同じ淡々としたものだったけれど、その瞳の奥に秘められた感情を、ゆめは知っている。
「はい、ありがとうございます。
今のところ、問題はないですが気を付けます」
ゆめの答えに一つ頷くと、少し先を歩く二人を見ながら歩く。
彼の母の歩みは、ゆめに合わせてゆっくりだった。
六月の日曜日。
京都の街は、連日雨が降っていた。
濡れた石畳と肌に纏わりつくような湿気が、梅雨を実感させる。
ソファーに座り、窓の外の雨音を聞きながら、のんびりと雑誌をめくる。
隣では、同じように郁人が雑誌を読み込んでいる。
二人がめくる雑誌は、同じ機関が発行している科学雑誌。
一般の人でも楽しく読めるように、できるだけ専門用語に寄り過ぎないよう選択がしてある。
論文雑誌とはまた違う読み口の、この雑誌が二人とも好きだった。
「子どもの時、学校で希望者が購入できる子ども向けの科学雑誌があったの知っています?」
ゆめが尋ねると、郁人が頷く。
「知っている。……ずっと購読していた」
「あ、やっぱり。
わたしも愛読していました」
低学年の時は、付録目当てで。
高学年になっていくほど内容に惹かれた。
そんな思い出話をしながら、ゆめがソファーから立ち上がった瞬間だった。
ほんの少しの違和感。
何か、温かいものが足を伝う感覚がしたと思ったら、床に静かに水たまりができていく。
自分の意志では止められないそれに、血の気が引いていくような感覚がした。
「郁人……!」
一瞬なにも考えられなくなったゆめが、助けを求めるように、彼の名前を呼ぶ。
郁人の方は、ゆめが名前を呼ぶより先に状況を把握し、すでに産院に電話を掛けていた。
「ゆめ、今すぐ病院に行く。
タクシーにも連絡済みだ」
いつそうなっても良いように、玄関横に置いていた入院バッグを彼が手に取る。
渡されたバスタオルを巻き、乗り込んだタクシーではできるだけ横になるように言われた。
冷静な郁人の対応に、少しだけ頭が落ち着いてきて息がスムーズにできるようになる。
三十八週。
まだほんの少しだけ先のことだと思っていた出産が、唐突に目の前に降りてきた。
タクシーの中、緊張で握りしめた手に、ふわりとやさしく包み込むように手が重ねられた。
お揃いの指輪を、郁人の手がすっと抜き取る。
「これは、預かっておく」
「うん……ありがとう」
そういえば指輪やネイルに関する注意書きもあったっけ……と郁人の対応に思い出す。
彼の落ち着きに救われたと思ったが、よく見ると郁人もほんの少しだけ目が揺らいでいた。
平気そうに見えるだけで、平然としているわけではない。
「もうすぐ、会えるね」
「……そうだな」
交わした言葉は、それだけだった。
ただ、重ねられた手が、とても温かかった。
ゆめが陣痛に耐える間。
郁人は隣を離れることなく、手を握っていてくれた。
長い時間を耐えた後、小さな産声が部屋に響く。
その声に、痛みや疲れがすっと消えていく。
「おめでとうございます、元気な男の子です」
すぐ傍に連れてこられた赤ちゃんに、やさしく声を掛ける。
「……こんにちは、初めまして」
名前はもう、決まっていた。
「ようこそ、陽くん」
指先で小さな手をつつくと、思ったより強い力で握り返された。
“陽”と書いて“はる”と読むその子は、名前の通りの温かさを、二人に運んできてくれた。
◇
コットの上に静かに寝かされた赤ちゃんの姿を、大人たちが代わる代わる覗き込む。
連絡を受けた郁人の母とゆめの両親が、揃って初孫の誕生を喜んでいた。
「郁人くんそっくりね」
ゆめの母が笑うと、ゆめの父もそれに激しく同意していた。
「本当に!
将来は頭のいい子になりそうだ!」
「……そうでしょうか」
いつもの無表情に見せながら。
ほんの少しだけ、郁人の目がやさしい。
ゆめはその事実に心が温かくなるのを感じながら、よく眠る息子へと視線を送る。
保坂家のメッセージアプリのグループチャットにも、生まれた報告と一緒に陽の写真を載せた。
そこにもお祝いの言葉と共に、“郁人そっくり”という文字が並んでいた。
◇
駆けつけてくれたゆめの両親と母が、後ろ髪を引かれるような表情で病室を後にする。
郁人は、孫を見つめる母の表情を思い出す。
あんな風に、穏やかな笑みを浮かべる母を見るのは初めてではないだろうか。
三人がいる間、一度も目を覚ますことのなかった息子の口元が少し動く。
次の瞬間には元気のいい泣き声が響き渡った。
「ええと、さっきから三時間……ミルクかな」
コットの横にぶら下げられた紙を見ながら、ゆめが呟く。
胸元をくつろげる姿に、そっと視線を外す。
穏やかな時間。
「まだ全然量が足らないから……ミルク作ってきます」
息子は飲み足らないのか、ゆめから離されるとまた小さく唸った。
そっと抱き上げて、背中をさするとすっと落ち着く。
次の瞬間、目を細めて笑った。
――新生児微笑。
生理的な笑みだとわかっている。
自分に笑いかけたわけでは、決してない。
「……あかん、反則や」
気が付いたら、言葉が零れ落ちていた。
◇
ガチャリと扉を開けて、小さな哺乳瓶片手にゆめが戻る。
郁人の腕の中、陽が目を細めていた。
「あ、この子のこの表情。
たぶん排便しています」
「…………」
ゆめは手早く受け取ると、おむつを交換し始める。
その姿を、じっと郁人が見つめていた。
「ミルク、授乳してみますか?」
郁人が小さく頷く。
哺乳瓶を渡すと、息子を授乳クッションに乗せて、飲ませ始める。
その姿が似合わないと思っていたのにどこかしっくりきてしまって、ゆめは言葉に出さずにそっと笑った。
◇
陽が生まれてから、三か月が経とうとしていた。
首もほとんど座り、抱っこ紐にも安心して入れられるようになった。
今日は学校へと、共同研究の進捗状況を把握するために向かう約束をしていた。
通いなれたはずの学校への道が、半年ぶりで少しだけ懐かしい。
研究室のドアをノックし、開く。
そこには変わらない雰囲気が広がっていた。
「こんにちは、お久しぶりです」
ゆめに気が付いた人たちが、一斉にゆめとその息子へと視線を向けた。
「ゆめちゃん、久しぶり!
元気そうで良かったよ」
佐伯さんを始めとした人たちが、次々に声を掛け、近付いてくる。
「うわ!
沢木先生そっくり!」
「本当だ……そっくりですね」
部屋の奥で教授と話していた郁人が、ちらりとこちらを振り向いた。
「本当に沢木くんそっくりだね~」
久我教授は、感心したように陽を見つめる。
ゆめは陽に研究室がよく見えるように、抱っこ紐を外した。
「ほら、陽。
教授と、パパですよ」
ゆめのパパと言う言葉に、何人かが噴き出した。
教授が、抱いていいのかな?と言いながら嬉しそうに受け取る。
教授に抱かれながらも、隣に父親がいることに気が付いたようで、郁人の方へと手を伸ばしていた。
「やっぱりパパがいいんだなぁ」
そう言いながら郁人へと手渡すと、慣れた手付きで抱き上げる。
その拍子に、にこりと陽が笑った。
「うわ、笑った!」
「かわいい!」
「沢木先生と同じ顔して、ゆめちゃんみたいに笑うとか、反則でしょ!」
みんなの言葉に、郁人が少しだけ目を細めて陽を見つめる。
息子を郁人に任せて、ゆめは佐伯さんたちの方へと歩いていった。
共同研究についての確認が始まると、あっという間にそちらの話に夢中になる。
資料を見つめる目は、母の目からすっかり研究者の目に変わっていた。
その日の夕方。
メッセージアプリの家族のグループに、可愛い双子の写真が並んだ。
◇
それから、四年後。
陽は保育園にすっかり慣れ、元気いっぱい通っている。
今は福岡県に住んでいる双子とも、時々会っては仲良く過ごしていた。
秋の連休。
陸とまなが双子を連れて京都に遊びに来てくれていた。
双子の姉である澪は、陽の横にちょこんと座って手元のアクリルキューブを見つめる。
鉱石見本のアクリルキューブ。
郁人の母からの贈り物で、陽のお気に入り。
普段弟の湊に振り回されがちな分、陽の傍では安心しきった表情を浮かべている。
陽の解説を、キラキラした目で真剣に聞いていた。
弟の方は、アクリルキューブの中の鉱石を光に翳しながら不思議そうに観察している。
陸そっくりな澪と、あちらのお父様……陸の父によく似た湊。
おじいちゃん似ねなんて言われる湊だけど、ゆめからしたら海に似て見えた。
郁人は、三人が遊ぶ姿を近くで見守っている。
陸とまなも、その様子を少し離れた位置から見つめていた。
それを横目で確認しながら、ダイニングテーブルの上に四人分のお茶を置くと、リビングでノートPCを開いた。
ノートPCの画面に映し出された論文を、改めて見つめる。
何度読んでも、突っ込める隙をほとんど感じさせない、完成された論文。
ほんの僅かに感じさせるその隙ですら、質疑応答で求められる以上の回答を完璧に返したと話題になった、ある意味伝説を作った博士論文。
論文に記載されている著者名を、口角を上げて見つめる。
郁人の好きなところはたくさんあるけれど、夫としての彼以上に研究者としての彼をゆめは愛している。
彼は、ゆめの妊娠という突然舞い降りた人生のターニングポイントの只中で、それを足かせと感じさせない論文を書いた。
なら、ゆめは母になったからこそ書けたと言われるような論文が書きたい。
休学を一度挟んだからこそ、今までに持てなかった視点を持てるようになった証明として。
修士論文は、まだ幼い陽を抱えながら書いた。
保育園に預けたばかりの彼は、とにかく体調を崩した。
それでも書き上げた論文は、ゆめには不完全燃焼ながらもそこそこ高い評価を得てしまった。
だからこそ、自分に負けた気がした。
郁人はその論文に目を通したとき、“破綻はしていない”と一言だけ伝えた。
それがどこか悔しかった。
今回は、出し尽くす。
自分が後でこのような気持ちを抱えることのない、向き合い切った論文を書く。
もう一度、郁人の論文を見つめた。
――わたしはこれを、質で超えて見せる。
◇
「沢木くん、少しいいかな?」
授業の予備実験が終わったタイミングで、久我教授から声を掛けられた。
そのまま、一つ頷いて彼の後ろへ着いていく。
何の話かは、なんとなくわかっていた。
「先に、教員側として君に共有をしておきたい」
「はい」
「大学側にポストを空けさせる。
僕は、ゆめくんをこの学校から失うのは、明確な損失だと考えている」
その言葉の重さに、握りしめる手に力が入る。
教授の本気さが、嫌というほど伝わってくる。
「博士課程に入って、ゆめくんの価値はさらに上がった。
彼女は研究だけじゃなくて、指導もできる――こちら側の人間だ」
郁人は黙って頷いた。
大学という組織に対する貢献度で上げるなら、自分よりも彼女が上だ。
助教という立場だからこそ言えるのは、自分は教授になるつもりは一切ない。
出世レースに乗るよりも、スペシャリストとして研究者側で立っていたい。
だが、ゆめなら。
「……本人の意思次第ですけど。
教授の考えには同意します」
空きポストがあったから、“大学にいてくれたら助かる”と声を掛けられた自分と、空きポストを作ってまで“大学からいなくなったら損失”と声を掛けられるゆめ。
その違いを正しく理解しながら、郁人は口角を数ミリ上げた。
その姿は、どこか誇らしげだった。
◇
ゆめがローテーブルの上に資料とパソコンを広げて、静かに集中していた。
そこに、郁人は邪魔にならない位置にコーヒーの入ったカップを置く。
ゆめ好みに、砂糖とフレッシュを二つずつ落としたもの。
ちらりとゆめは郁人を見つめ、そして柔らかい笑みを浮かべた。
その笑みに反応して、郁人もゆめだけにわかる笑顔を浮かべる。
そこへ、軽い足音。
「パパ、ママ」
振り返ると、陽が両手にアクリルキューブを持って立っていた。
片方は淡い青、もう片方は深い緑。
「これ、どっちもきれい!」
ゆめの膝の上にするりと座ると、二つを見つめながら嬉しそうに言う。
アクアマリンと、エメラルド。
同じベリリウムから生まれた、まったく違う色。
ゆめは、何も言わずにその二つを見つめた。
郁人も、言葉を挟まなかった。
ただ、条件が違えば、性質は変わる。
どちらも嘘ではない。
それだけの事実が、そこにあった。


