“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ~わたしの夢は、優しい年上男性に夢の国で告白されること~
第7章 学習スタイルを確立しましょう
―情状酌量はありません―・上
GW開けの最初の土曜日。
祇園の街を二人で歩きながらも、会話はほとんど無かった。
それが緊張から来るものだとわかっているからこそ、二人共がどうにもできなかった。
数日前、郁人から話してくれた家族の話を思い出す。
『俺の両親は、中二の時に離婚しているから挨拶するのは母親だけになる。
高校の数学の教師で……泣きごとを一番嫌う。
正直俺は嫌ってはいないが好いてもいない。
向こうも似たようなものだと思う』
郁人の語る母親像が、完全に高校の生活指導の先生と重なり、背筋が伸びた。
ゆめ自身は成績面でも生活面でも指導を必要とする生徒ではなかったけれど、なおが何度も注意されているのは嫌と言うほど知っている。
なおの愚痴を聞かされていたからこそ、なんとなく苦手意識はあった。
だけど、今回の相手は郁人の母である。
苦手、で逃げたくは無かった。
八坂神社の横を通り、さらに先に進んだところにあるマンションの前で、郁人の足が止まった。
「ここ」
そこそこの高さのあるマンションを、ゆっくりと見上げる。
静かに佇むそれが砦のように感じられて、ゆめはごくりと息を飲んだ。
「……行こう」
丁寧に磨き上げられたエントランスに入ると、決して暗くはないのに、明るすぎない設計になっていることに高級感を感じる。
採光の方法や間接照明の配置に、計算され尽くした結果を見たような気になった。
郁人がオートロックの前で立ち止まり、一拍置いてから部屋番号を押した。
『入りなさい』
郁人が喋ろうと口を開く前から、先に声を掛けられて扉が開く。
郁人は、低層階専用のエレベーターのボタンを押すと「……ああいう母だ」と一言呟いた。
(……確かに、郁人のお母さんって感じがした……)
エレベーターが来ると、五階のボタンを押す。
「……住んでいたときは、待つのが面倒で階段を使っていた」
きっと彼の母もそうしているんだろうなと、なんとなく思った。
玄関に入った瞬間、きれいに整えられた室内が視界に入った。
極力、無駄を省いた室内という印象で、余白はあまり感じられない。
その先に、セミロングの黒髪の女性が静かに佇んでいた。
その定規のようにまっすぐした立ち姿に合わせるように、必死でゆめは背筋を伸ばして挨拶をした。
「初めまして。
お忙しい中、お時間を割いていただいてありがとうございます。
わたくし、郁人さんとお付き合いをさせていただいています、保坂夢と申します」
丁寧に下げられた頭。
ゆめが朝から気合いを入れて巻いた毛先が、くるんと跳ねた。
そんなゆめの様子を、静かに彼の母は見つめる。
「母さん、こちらが保坂夢さん。
研究室の後輩で……俺の大切な人だ。
結婚したいと思っている」
ゆめと同じくらいまっすぐに母を見つめて言う郁人には、ちらりと一瞥を。
そして、もう一度頭を下げたままのゆめを見る。
「あなた、砂糖菓子のような女の子ね」
郁人によく似た淡々とした調子で紡がれた言葉の意味を考えて、ゆめはそのまま硬直した。
頭を下げた姿勢のまま、考える。
今まで、何度か“かわいい”の言い換えでその言葉を掛けられたことはある。
だが、今のは明らかにそんなニュアンスではない。
「失礼です」
郁人はすぐにゆめの頭を上げさせ、背に隠すように前に出た。
そのかばう姿を見て、あからさまに大きなため息をつきながら、母は続けた。
「……私は、あなたも同じくらい……。
……いいえ、それ以上に“甘い”と思っているわよ?」
びくりと、彼の背が震えた。
今までの彼が見せたことの無いようなその姿が、痛かった。
そんな姿でも立ち続ける彼に、かばわれたままの自分が恥ずかしい。
自分から彼の横へ並び、改めて頭を下げた。
「……郁人さんに釣り合うための努力をしないまま、ここに来てしまって……ごめんなさい」
「違うわね」
ゆめが謝罪を口にすると、即座にそれは否定された。
「努力の量で、人は釣り合ったりはしない」
ゆめは思わず、視線を逸らしそうになった。
けれど、彼の母の目はまっすぐにこちらを見ている。
両手に力を入れて、必死でゆめも耐えた。
「釣り合っていないのは、あなたのせいだけではないわ」
静かに、感情の感じさせない声で。
だけどはっきりとその言葉は届く。
「あなたは、郁人を“尊重する”という形で、自分の責任まで背負わせている。
……そして、郁人はそれを“守っているつもり”で引き受けている」
そして、最後に彼の母は自分の息子を見つめた。
「それを誠実だと勘違いしているのが、あなたの一番の問題ね」
その言葉に、郁人は反論をしようと口を開きかけるが……できなかったようで静かにまた唇を引き結んだ。
思い当たることが、多すぎると告げているような表情だった。
二人とも、何も言えなかった。
返せる言葉を、持っていなかった。
「できるようになった“結果”だけを見せなさい。
そこへ至る過程は評価対象外」
「……ありがとう、ございました。
貴重なお時間をいただいて、すみませんでした」
再度ゆめは頭を下げると、最後に手土産として持ってきた菓子折を手渡した。
「ありがとう」
それだけ言うと、もう視線は二人の方には向かなかった。
受け取ってもらえないかと思ったが、それは無事に受け取られた。
◇
賑やかなはずの祇園の街は、それでも二人の耳には正しく届いていなかった。
言語化しにくい重たい感情を抱えたまま、無言で二人は歩く。
考え込んだ様子の郁人は、無意識のうちに早足になっていたようだった。
ゆめが隣にいないことにやっと気がつき、慌てて振り返った時には、横断歩道一つ分引き離されていた。
信号が変わり、二人の間に車が行き交う。
再び青になる。
ゆめが小走りで追いついてきたときに、ぎゅっと左手を握られた。
淡々としているはずなのに、どこか弱々しい「ごめん」の言葉が、外に出てから初めて聞いた郁人の声だった。
◇
その日、ゆめは自分の家に郁人を連れて帰った。
ゆめは、思考の海に沈んでいる郁人が別々の家を選ぶ前に、希望を言葉にした。
今ここで、別々の生活を選んでしまったら、それこそ母が言った二拠点あることの逃げになる。
郁人の母の言葉は鋭く、痛かった。
それは、図星だったからだとゆめにもわかっていた。
誰よりも一番息子を断罪するような彼女の言葉は、厳しいが一度も別れろとも言われなかった。
思考と行動の欠点の指摘はされたが、人格そのものは否定されていない。
その厳しさは、確かに最初に研究室で郁人に感じたのと、同じ温度をしていた。
◇
月曜日の講義は午後にまとまっているので、午前中は研究室へと顔を出した。
この曜日だけは、郁人とゆめの研究時間が午前と午後で反対になる。
再び、講義が終わる夕方からは一緒になるが、少しだけすれ違いを感じる曜日でもあった。
毎週、お昼を一緒に食べて、そしてそれからまた別れる。
ゆめは奥の部屋で、顕微鏡片手に観測結果を一度も顔を上げることなく手元のノートに書き記していた。
そろそろお昼の時間なのはわかっている。
静かに、扉が開く音がした。
「ごめんなさい。
まだ終わらないから、キリが良いところまで待っていて貰えますか?」
相手も見ずに伝えた言葉は、だけどすぐに返ってくることが無く。
不思議に思いながら「郁人?」と返すと、「ごめんね、僕で」と予想にしなかった声が返ってくる。
慌てて顕微鏡から目を離すと、そこには久我教授がちょっと困った顔をして立っていた。
ゆめは頭が真っ白になりかけるのを理性で耐えながら、「間違えてすみませんでした」と謝罪した。
「いやぁ……。まさか僕に掛けられた言葉と思わなくて……こっちこそごめんね……」
気まずそうに謝られる言葉が痛かった。
これはゆめの失敗ではあるけれど、今の郁人が知ったら絶対に折れてしまう原因になりかねない。
久我教授は、二人の関係に気がついても、わざわざ言いふらしたりはしないだろう。
ゆめは、この失敗を“共有しない”選択をした。
◇
とりあえず一緒に暮らす家の条件を挙げてみようと、ゆめは一人ノートPCへと向かう。
レポート用紙には、思いついたものを書き記してある。
それを実際の賃貸情報を見ながら、現実にすりあわせていくことにした。
家は、学校の傍であることは譲れない。
問題は、講義棟を取るか、研究棟を取るか。
広すぎる学校ゆえ、エリアの選択肢が増える。
それから、部屋の数。
今なら二部屋あれば十分な気がするが、結婚を考えた時にそれで良いのかがわからない。
家電をどうするかの問題もある。
ゆめも郁人も、最低限の家電しかない。
洗濯機は買うとして、衣類乾燥機は必要?
それから、冷蔵庫はお互い備え付けの小さいものだけだけど、それも買わないといけないだろう。
でも、どのサイズが必要かは、わからない。
ベッドは新しくするべきなの?
調理家電をどこまで買う?
考えれば考えるほど、正解から遠ざかっていく気がした。
とりあえずインターネットでざっとこのあたりの家賃の平均と、それから敷金礼金などの必要経費、そして購入予定の家電などを適当に選んで試算する。
はじき出された金額が、大幅に想定を超えて頭を抱えてしまった。
どこを譲って、どこを譲らないか。
それすらも、答えが出なかった。
「ゆめ……?」
シャワーを終えた郁人が、PCの前で頭を抱えているゆめの姿を見つける。
少しだけ語尾の上がる疑問系で尋ねながら、画面を覗いた。
その画面を見て、「ああ……」と理解したような声音に変わる。
「試しに、色々わたしなりの条件で試算してみたんです。
とてもじゃないですが、予算が足りませんでした。
削っていい条件残す条件、郁人はどう思いますか?」
郁人は、しばらく画面を見たまま黙っていた。
「……正直に言うと」
少し間を置いて、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺は、何が必要かを、まだ決められていない」
郁人の目が、崩れた私物の方へと移った。
「今までの生活は、“困らない最低限”を積み上げただけだった。
だから、何を優先するかと聞かれると……答えがよくわからない」
郁人は再び画面へと視線を移す。
ゆめの描いた条件が、一つずつ並んでいた。
「ただ、一つだけはっきりしている。
“効率”を理由にした判断基準は、もう正解じゃない」
ゆめはその言葉に、彼の方を振り向いた。
彼の目線は、未だ画面に固定されていた。
「……家は、二人で話せる場所であってほしい」
郁人の目が、初めてゆめの方を見る。
今語る彼の言葉が、熟考された末のものだと伝わってくるような語り口だった。
「研究室みたいに、それぞれが黙って作業する場所じゃなくて。
ちゃんと、生活の話をする余白を残したい」
「……それ、条件としては一番難しいですね」
冗談めかして言いながらも、その言葉は本心だった。
部屋数よりも何よりも、そこから生まれる関係性の問題だ。
「でも、たぶん。
そこを決めないと、他も決められない気がします」
郁人は静かに頷く。
まだ、答えは出なかった。