見積もりには書けないもの

第五話 『リフォームと人生』

『原澤さん、うちにはね、春まで息子がいたんです。
一人息子。それがね、大学進学で一人暮らしを始めたんです』

そう言って、森下さんは少し照れくさそうに笑った。

『それで主人と二人暮らし』

そこまで言って、少し間を置く。

『二人暮らしって言っても、主人は単身赴任みたいな感じで、ほとんど帰ってこないので……ほぼ一人暮らしみたいなもんなんです』

恥ずかしそうに、それでもどこか楽しそうに家族の話をしてくれた。

カラン……

アイスコーヒーの氷がグラスの中で鳴った。

一瞬、沈黙になりそうな空気を、氷の音がリズムで誤魔化してくれた。

うちの息子の一つ歳上か。

旦那さんも、ほとんど帰ってこないんだ……。

それと、何が繋がってリフォームなんだろう。

こんなに素敵なお家なのに……。

俺は今まで、古くなったものを直してきた。

不便なものを便利にしてきた。

壊れたものを元に戻してきた。

だからこそ、頭の中のハテナが消えない。

俺は黙ってしまっていた。

そんな俺に気づいたからなのか。

それとも、また氷のリズムに乗ったからなのか。

森下さんは、続けて話してくれた。

『振り返れば、私の人生ってずっと息子を追いかけてたのかなって……』

そう言って、森下さんは少し遠くを見るような目をした。

『小さな頃から始めた野球を、高校生まで続けてきました』

『朝からお弁当を作って、練習に行って。試合の観戦に行って、帰ってきたらご飯を食べさせて……真っ黒に汚れたユニフォームを手洗いして』

一つひとつ、思い出すように話す。

『本当に、あっという間に一日が終わるんです』

そして、少しだけ笑った。

『それがね……』

そこで一度、言葉が止まった。

『春から、全部なくなって』

俺は黙って聞いていた。

『私に課せられた課題みたいに思っていたものが、負担に感じた時もありました……』

『でもね……あれは、生き甲斐だったんだなって』

その言葉だけは、ゆっくりと俺の中に入ってきた。

森下さんは、窓の外に目を向けた。

『一人ここでコーヒーを飲んでるとね……』

『この景色の中にいた、あの小さな野球少年が、生意気な高校球児になるまでの息子が、蘇ってきちゃうんです』

『それはそれで、微笑ましく感じる時もあるんです』

少しだけ笑う。

でも、その笑顔の奥には、寂しさも見えた。

『でもね……彼は巣立った』

その一言が、静かなリビングに落ちた。

『だから私も、思い切って子離れしようかなって』

森下さんは、今度はしっかりと俺の方を見た。

『このリビングだけでも、今の私色に染めて……』

『新たな気持ちで、私の人生を再スタートさせたいなって……』

そう言い終えると、

「話し過ぎました」

とでも言うように、森下さんは少し首を下げ、横目で俺に会釈した。

カラン……

また氷が鳴った。

……なんて空気を読めるアイスコーヒーなんだ。

俺は、そのリズムに乗るように、残りのアイスコーヒーを一気に流し込んだ。

だって、初めてだったのかもしれない。

こんなことを言われたのは。

今も十分に素敵な家なのに、

「私色に染めたい」

と言われたのは。

何かのリズムに乗らないと、

「よし、やろう」

と進めないような、この課題。

森下さんのアイスコーヒーがなかったら、俺はこのリズムに乗れなかったかもしれない。

喉を通っていく冷たさと、頭の中に残った氷の音。

俺は心の中で、そのアイスコーヒーに感謝した。

そして、もう一度リビングを見渡した。

さっきまでとは、少し違って見えた。

ここは、息子さんが育った家じゃない。

これからは――

森下さんが、新しい人生を始める場所なんだ。

そう思った瞬間、俺の中でひとつのイメージが浮かんだ。

俺は森下さんに、何かを決めつけるような提案をするのではなく、

このリビングと、森下さんがこれからどう過ごしたいのか。

その二つを、一緒に考えてみたくなった。

『森下さん……』

俺は、ゆっくり口を開いた。

『もう少し、このリビングのこと聞かせてもらってもいいですか?』

森下さんは、少し驚いたように俺を見た。

そして、ほんの少しだけ笑った。

『はい』

その返事を聞いて、俺も笑った。

こうして俺たちは、

一人の女性のこれからと、

一つのリビングのこれからを、

ゆっくり重ね合わせていくことになった。
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