もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

第15話 トーカチーの市場

石畳を軽やかに、けれど一歩一歩踏みしめながら歩く。  

 朝の空気はまだ少しひんやりしていて、椎の木の葉を揺らす風が気持ちいい。

 家から市場までは歩いて十分ほど。

 白樺林へ続く石段を一段一段登っていく。

 木漏れ日が足元へ揺れ、鳥たちが枝から枝へ飛び移っていた。

 林を抜けると、一気に視界が開ける。

「わぁ……」

 思わず立ち止まった。

 十勝領の大きな広場が目の前いっぱいに広がっている。

 中央には大きな噴水。

 太陽の光を浴びた水しぶきが虹を作り、周囲では獣人の子どもたちが歓声を上げながら走り回っていた。

 色鮮やかなフラッグが青空の下ではためき、赤や黄色、緑の旗が風を受けて踊っている。

 放射線状に広がる路地。

 市場のテントは広場の端から端までびっしりと並び、その先は石造りの家々に沿ってどこまでも続いていた。

「……すごい、大きな市場だわ」

 オホーツク領の市場とは比べものにならない。

 あちらは辺境と呼ばれるだけあって、露店も数えるほどしかなかった。

 買い物へ行けば、必ず誰か知り合いと顔を合わせるような小さな町だった。

 でも、ここは違う。

 歩いても歩いても店が続いている。

 八百屋。

 肉屋。

 魚屋。

 パン屋。

 鍛冶屋。

 家具屋。

 布屋。

 香辛料を売る店まで見える。

 焼きたての肉の香りが鼻をくすぐり、花屋からは甘い花の香りが風に乗って流れてきた。

 木箱を積んだ荷馬車が往来し、荷物を担いだ旅人が露店を珍しそうに覗く。

 甲冑を身につけた衛兵が、鋭い視線であたりを窺っている。

「ここなら、なんでもありそうね」

 胸がわくわくする。

 これからこの町で暮らすのだと思うと、不安より期待の方が大きかった。

 私はまず家具屋へ向かった。

 昨日一晩寝ただけで腰が悲鳴を上げたマットレスを思い出したからだ。

 途中、パーカーとオーバーオール姿の私は不思議そうな目で見られて居心地が悪かった。やっぱりこの姿は異世界では浮いている。

「いらっしゃい」

 店主が笑顔で振り向く。

 そして私の服を見るなり、一瞬だけ目を丸くした。

 やっぱり。

 このパーカーとオーバーオールは、この世界ではかなり珍しいらしい。

 私は少しだけ苦笑いした。

「ベッドのマットレスとシーツを買いたいんですが」

「ああ、マットレスならこっちだ」

 店の奥には何種類ものマットレスが並んでいた。

 藁。

 羽毛。

 羊毛。

 見たこともない植物の繊維で編まれたものまである。

「試しに寝てみてもいいですか?」

「もちろんだよ」

 私は靴を脱ぎ、一つ目の羽毛のマットレスへ横になる。

「わぁ、柔らかい」

 雲みたいな寝心地だった。

 でも。

「……うーん」

 腰が沈みすぎる。

 寝返りも打ちにくい。

 私は起き上がった。

「これは私には柔らかすぎるみたい」

「じゃあこっちは?」

 二つ目は藁のマットレスだった。

 少しだけチクチクする。

 でも横になると程よい硬さが背中を支えてくれた。

「これだ」

 私は思わず笑う。

「これにします」

「毎度あり」

 店主は嬉しそうに帳面を開いた。

「古いマットレスは引き取るよ。新しいのは家まで運んでやる」

「本当ですか?」

「ああ」

 助かった。

 一人で運ぶには大きすぎると思っていた。

 受付の伝票へ名前を書く。

 すると店主が首を傾げた。

「この字は何て読むんだい?見たことがないな......お客さん、トーカチーの人じゃないね」

「ウエダサワコです」

「爽子さんか」

「はい」

 私は笑顔で答える。

「大きな椎の木がある家へ引っ越してきました」

「ああ、あの店か!」

 店主は思い出したように笑った。

「あそこは長いこと空き家だったんだ。何の店を始めるんだい?」

「食堂酒場です」

「ほう!」

 目を輝かせる。

「美味しいものが食べられそうだな」

「ヴェダー亭っていうんです」

 自然と口元が緩む。

「ぜひ来てください」

「もちろんだ!」

 店主は親指を立てた。

 私は少しだけ緊張しながら金貨を差し出す。

 オホーツク領でもらった金貨。

 ここでも使えるのだろうか。

 一瞬だけ不安になる。

 店主は何事もなく受け取り、お釣りを数えて返してくれた。

「はい、お釣り」

 ホッと胸を撫で下ろす。

 通貨は共通らしい。

 これで安心して買い物ができる。

 次は服。

 そして今夜の食材。

 私は市場を歩き始めた。

 八百屋を覗く。

「ブツブツブツ……」

 キャベツは今日も呪文を唱えている。

 人参は誰かに持ち上げられるたびに「しくしく」と泣き始める。

 ピーマンは相変わらず「切らないでぇ」と小さく震えていた。

「今日も賑やかね」

 思わず笑ってしまう。

 きっと私のキッチンも毎日にぎやかになるだろう。

「お肉は……」

 肉屋には鶏の手羽先。

 角うさぎの塊肉。

 豚バラ。

 立派なソーセージ。

 牛肉まで並んでいる。

 思わず目移りしてしまう。

 一方で隣の魚屋を覗くと、並んでいるのは干物と干し貝だけだった。

「……やっぱり」

 少し肩を落とす。

「内陸は生の魚がないのね」

 本当は刺身も出したかった。

 カルパッチョも。

 昆布巻きだって作りたい。

 でも、ないものは仕方ない。

 その代わり肉料理で勝負しよう。

 そんなことを考えながらチーズ屋を覗いた、その時だった。

 ドンッ。

「キャッ!」

 誰かが勢いよく肩へぶつかってきた。

 体勢を崩す。

 一瞬、肩から麻袋が滑り落ちたような気がした。

 違う。

 滑ったんじゃない。

 男が私の麻袋を引ったくったのだ。

「あっ!」

 茶色いマントの男は、麻袋を抱えたまま人混みへ飛び込んでいく。

「待って!」

 私は追い掛けようとして足を滑らせた。

 石畳へ転ぶ。

 手のひらがじんと痛む。

「泥棒!」

 声の限り叫ぶ。

「誰か! 泥棒です!」

 男は露店の間を器用にすり抜け、人混みへ消えていく。

「どうしよう……」

 頭が真っ白になる。

「私のお金……」

 店を始めるための大切な資金。

 あれを失ったら何も買えない。

 立ち上がろうとした、その時だった。

「任せろ!」

 背後から若い男の声が響く。

 一人の青年が私の横を風のように駆け抜け、人混みの中へ飛び込んでいった。

 迷いのない走りだった。

 まるで最初から泥棒を追うと決めていたかのように。
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