もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~
第16話 レオンとの出会い
青年の背中は、あっという間に雑踏の中へ紛れていった。
露店と露店の間を縫うように駆け抜け、次の瞬間にはもう姿が見えない。
「……」
追い掛けたい気持ちはある。
でも足が震えて動かなかった。
ようやく我に返り、噴水広場のベンチへ腰を下ろす。
膝がじんじん痛む。
転んだ拍子に擦りむいたらしく、オーバーオールの膝が白く擦り切れた。
「痛……」
両手を見る。
麻袋を掴もうとして地面へついた掌は真っ赤になり、細かな砂が張り付いている。
ひりひりと痛い。
布でそっと払ってみるけれど、傷口へ触れるたび顔がしかめ面になる。
周囲では相変わらず市場の賑わいが続いていた。
大道芸人へ拍手を送る人。
焼きたての串肉を頬張る子ども。
笑いながら買い物をする夫婦。
赤い風船が空へ舞い上がり、妖精たちが追い掛けて飛び回っている。
さっきまで楽しく見えていた景色が、急によそよそしく感じた。
まるで私一人だけ、この賑やかな世界から取り残されてしまったみたいだった。
「どうしよう……」
胸が締め付けられる。
家へ帰れば、まだ金貨は少し残っている。
店を開くことだって、きっとできる。
でも。
あの麻袋の中には、お金以上に大切なものが入っていた。
パールピンクのスマホ。
もう充電は切れている。
電波だって届かない。
それでも、どうしても捨てられなかった。
熊ちゃんと撮った写真。
ラーメンヴェダ亭の店先。
二人で笑いながら写った何気ない日常。
画面の向こうには、もう戻れない思い出が詰まっている。
だから、失いたくなかった。
私はさっき青年が走っていった路地をじっと見つめる。
「任せろ」
そう言った青年。
どこから現れて、どこへ走っていったのだろう。
本当に追い掛けてくれているのだろうか。
もしかしたら、そのまま逃げてしまった泥棒を見失ったかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
「そうだ……警察」
ふと、その言葉が浮かんだ。
この世界にも警察のような人たちはいるのだろうか。
衛兵なら見掛けたことがある。
相談してみよう。
私はゆっくり立ち上がった。
その時だった。
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いが聞こえる。
振り向くと、一人の青年がこちらへ歩いてきていた。
額には汗。
頬には土。
ズボンの膝も泥で汚れている。
かなり走り回ったのだろう。
転んだのかもしれない。
息を整えながら、それでも笑顔を浮かべていた。
その右手には――。
私の麻袋。
「あっ……!」
思わず声が漏れる。
青年は私の前まで来ると、息を整えながら袋を差し出した。
「……はい」
少し照れたように笑う。
「君のだろう?」
その笑顔は、まるで夏のひまわりみたいに明るかった。
柔らかな金色の髪が風に揺れる。
長い前髪の隙間から覗く碧い瞳は澄み切った空の色をしていた。
整った鼻筋。
優しく細められた目元。
思わず見惚れてしまうほど端正な顔立ちだった。
私は麻袋を取り返してくれたことも忘れ、その顔をぼんやり見つめてしまう。
「どうぞ」
青年は私が受け取りやすいように石畳へ片膝をつき、目線を合わせてくれる。
その仕草まで優しい。
顔が熱くなるのが自分でも分かった。
「……あ」
ようやく我に返る。
「あ、ありがとう」
慌てて麻袋を受け取る。
その瞬間。
指先がほんの少し触れた。
たったそれだけなのに、胸がどきりと鳴る。
「中を確認してみて」
青年は穏やかな声で言った。
「もし何か無くなっていたら困るから」
「はい」
私は麻袋を開く。
最初に小さな革袋。
金貨。
銀貨。
銅貨。
ちゃんと入っている。
その下には、パールピンクのスマホ。
「……あった」
思わず胸へ抱き寄せる。
傷一つ付いていない。
思わず涙が込み上げてきた。
「ありがとうございます」
青年へ深く頭を下げる。
「ちゃんと全部入っています」
「良かった」
青年は心から安心したように微笑んだ。
その笑顔を見ていると、こちらまでほっとする。
逆光を受けた金色の髪がきらきらと輝いていた。
「あの、お礼を……」
すると青年は軽く首を振る。
「ありがとう」
優しく笑う。
「気持ちだけいただいておくよ」
「……で、でも」
「困っている人を助けただけだから」
さらりと言ってしまう。
まるで特別なことではないという顔だった。
青年は服についた泥をぱんぱんと払い落とす。
そして踵を返した。
何事もなかったように、また人混みの中へ戻ろうとする。
「ま、待って!」
私は思わず大きな声を出していた。
青年が立ち止まり、振り返る。
「あの!」
胸が高鳴る。
「名前!」
せめて名前だけは知りたい。
「私は上田爽子と言います!」
青年は静かに耳を傾けてくれる。
「大きな椎木の家で食堂酒場を開きます!」
自然と笑顔になっていた。
「店の名前はヴェダー亭です!」
青年の口元がゆっくり弧を描く。
「僕の名前はレオン」
爽やかな笑顔だった。
「いつか行くよ」
そう言って軽く手を振ると、人混みの中へ歩いていく。
今度は振り返らなかった。
私は麻袋を胸へ抱えたまま、その後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでも見送っていた。
露店と露店の間を縫うように駆け抜け、次の瞬間にはもう姿が見えない。
「……」
追い掛けたい気持ちはある。
でも足が震えて動かなかった。
ようやく我に返り、噴水広場のベンチへ腰を下ろす。
膝がじんじん痛む。
転んだ拍子に擦りむいたらしく、オーバーオールの膝が白く擦り切れた。
「痛……」
両手を見る。
麻袋を掴もうとして地面へついた掌は真っ赤になり、細かな砂が張り付いている。
ひりひりと痛い。
布でそっと払ってみるけれど、傷口へ触れるたび顔がしかめ面になる。
周囲では相変わらず市場の賑わいが続いていた。
大道芸人へ拍手を送る人。
焼きたての串肉を頬張る子ども。
笑いながら買い物をする夫婦。
赤い風船が空へ舞い上がり、妖精たちが追い掛けて飛び回っている。
さっきまで楽しく見えていた景色が、急によそよそしく感じた。
まるで私一人だけ、この賑やかな世界から取り残されてしまったみたいだった。
「どうしよう……」
胸が締め付けられる。
家へ帰れば、まだ金貨は少し残っている。
店を開くことだって、きっとできる。
でも。
あの麻袋の中には、お金以上に大切なものが入っていた。
パールピンクのスマホ。
もう充電は切れている。
電波だって届かない。
それでも、どうしても捨てられなかった。
熊ちゃんと撮った写真。
ラーメンヴェダ亭の店先。
二人で笑いながら写った何気ない日常。
画面の向こうには、もう戻れない思い出が詰まっている。
だから、失いたくなかった。
私はさっき青年が走っていった路地をじっと見つめる。
「任せろ」
そう言った青年。
どこから現れて、どこへ走っていったのだろう。
本当に追い掛けてくれているのだろうか。
もしかしたら、そのまま逃げてしまった泥棒を見失ったかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
「そうだ……警察」
ふと、その言葉が浮かんだ。
この世界にも警察のような人たちはいるのだろうか。
衛兵なら見掛けたことがある。
相談してみよう。
私はゆっくり立ち上がった。
その時だった。
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いが聞こえる。
振り向くと、一人の青年がこちらへ歩いてきていた。
額には汗。
頬には土。
ズボンの膝も泥で汚れている。
かなり走り回ったのだろう。
転んだのかもしれない。
息を整えながら、それでも笑顔を浮かべていた。
その右手には――。
私の麻袋。
「あっ……!」
思わず声が漏れる。
青年は私の前まで来ると、息を整えながら袋を差し出した。
「……はい」
少し照れたように笑う。
「君のだろう?」
その笑顔は、まるで夏のひまわりみたいに明るかった。
柔らかな金色の髪が風に揺れる。
長い前髪の隙間から覗く碧い瞳は澄み切った空の色をしていた。
整った鼻筋。
優しく細められた目元。
思わず見惚れてしまうほど端正な顔立ちだった。
私は麻袋を取り返してくれたことも忘れ、その顔をぼんやり見つめてしまう。
「どうぞ」
青年は私が受け取りやすいように石畳へ片膝をつき、目線を合わせてくれる。
その仕草まで優しい。
顔が熱くなるのが自分でも分かった。
「……あ」
ようやく我に返る。
「あ、ありがとう」
慌てて麻袋を受け取る。
その瞬間。
指先がほんの少し触れた。
たったそれだけなのに、胸がどきりと鳴る。
「中を確認してみて」
青年は穏やかな声で言った。
「もし何か無くなっていたら困るから」
「はい」
私は麻袋を開く。
最初に小さな革袋。
金貨。
銀貨。
銅貨。
ちゃんと入っている。
その下には、パールピンクのスマホ。
「……あった」
思わず胸へ抱き寄せる。
傷一つ付いていない。
思わず涙が込み上げてきた。
「ありがとうございます」
青年へ深く頭を下げる。
「ちゃんと全部入っています」
「良かった」
青年は心から安心したように微笑んだ。
その笑顔を見ていると、こちらまでほっとする。
逆光を受けた金色の髪がきらきらと輝いていた。
「あの、お礼を……」
すると青年は軽く首を振る。
「ありがとう」
優しく笑う。
「気持ちだけいただいておくよ」
「……で、でも」
「困っている人を助けただけだから」
さらりと言ってしまう。
まるで特別なことではないという顔だった。
青年は服についた泥をぱんぱんと払い落とす。
そして踵を返した。
何事もなかったように、また人混みの中へ戻ろうとする。
「ま、待って!」
私は思わず大きな声を出していた。
青年が立ち止まり、振り返る。
「あの!」
胸が高鳴る。
「名前!」
せめて名前だけは知りたい。
「私は上田爽子と言います!」
青年は静かに耳を傾けてくれる。
「大きな椎木の家で食堂酒場を開きます!」
自然と笑顔になっていた。
「店の名前はヴェダー亭です!」
青年の口元がゆっくり弧を描く。
「僕の名前はレオン」
爽やかな笑顔だった。
「いつか行くよ」
そう言って軽く手を振ると、人混みの中へ歩いていく。
今度は振り返らなかった。
私は麻袋を胸へ抱えたまま、その後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでも見送っていた。