不動産王子に求婚されたのでオタクにしてやりました

第2話 傷だらけの王子様

美月は目を見開いた

「怜司君って、本当にあの怜司君!?」

目の前に立つ男を、頭の先から足元まで見直す

記憶に残っているのは、顔中を腫らし、まともに目も開けられなかった少年だ

長身の美青年と結びつけろというほうが無理だった

「全然分からなかった!」

怜司は、目をわずかに細めたままだった

「って……約束?」

美月が首をかしげると、怜司はわずかに視線を落とした

先ほどまでの平坦な声が、ほんの少しだけ柔らかくなる

「美月、久しぶりに会ったのだから」
「一緒にお茶でも飲みながら話をしないか?」

「え、うん……少しなら」

子どもの頃に一度会った相手だと分かり、警戒心が少しだけ薄れた

怜司はエレベーターの操作パネルの前に立った

長身の背中に隠れ、どのボタンを押したのかは見えない

扉が閉まり、エレベーターが静かに動き始めた

美月はその広い背中を見つめながら、遠い記憶をたどった

怜司と一緒にいたのは、たった一日だけだった

けれど思い出してしまえば、あの日の出来事は驚くほど鮮明に残っていた

十五年前

雨の降る夜だった

当時十一歳だった美月は、母と買い物へ出た帰り道で、路地裏に倒れている少年を見つけた

シャツは泥にまみれ、頬は大きく腫れ上がっていた

口元から血を流し、雨に打たれながら小さく震えている

「お母さん、人が倒れてる!」

母はすぐに少年へ駆け寄った

「大丈夫!? すぐに救急車を呼ぶから」

「やめろ……」

少年が母のスカートの裾をつかんだ

ほとんど開いていない目で母を見上げ、必死に首を振る

「警察が来る……」

「でも、その怪我じゃ――」

「呼ぶな!」

少年は声を張り上げた直後、苦しそうに咳き込んだ

「救急車を呼べば、警察にも事情を聞かれる」
「仲間まで捕まる」

母の表情が曇る

「あなた……」

少年はそう言って、どうしても救急車を呼ばせようとしなかった

母は迷った末に、少年を自宅へ連れて帰った

古いアパートの二階にある、狭い1DK

今も美月が暮らしている部屋だった

母は少年の濡れた服を着替えさせ、布団に寝かせた

母が傷を消毒し、ガーゼを当てて包帯を巻くあいだ、美月は水で濡らしたタオルを何度も取り替えた

夜になると、少年は高い熱を出した

苦しそうに息をしながら、何度も誰かの名前を呼んでいた

けれど、それが誰の名前なのかは聞き取れなかった

母と美月は、ほとんど眠らずに少年を看病した

翌朝になると、熱は少し下がっていた

少年は体を起こし、母が作った卵粥を黙々と口へ運んだ

母が微笑む

「食べられるなら、少し安心ね」
「事情は分からないけど、悪いことをしているならもうやめなさい」

少年は答えず、椀の中だけを見つめていた

警戒心の強い野良猫みたいだと、美月は思った

「あなた、名前は?」

美月が尋ねると、少年はしばらく黙っていた

やがて、小さな声で答える

「怜司」

「怜司!?」

美月の声が跳ねた

「すごい! 王子様と同じ名前!」

「なんの話だ」

美月は本棚へ駆け寄り、一冊の小説を引っ張り出した

国を追われた王子が仲間を集め、荒れ果てた国を豊かにしていく児童向けのファンタジー小説

主人公の王子の名前も、レイジだった

「いい名前じゃない!」

美月は少年の前へ小説を差し出した

「あなた、顔も可愛いし、見込みがあるわ!」

「なんのだ」

「不良なんかやめなよ」

美月は表紙に描かれた王子を指さした

「どうせなら、こんなふうになったほうがかっこいいじゃない!」

少年は表紙の王子と美月の顔を交互に見た

「こいつがかっこいいのか?」
「どうすれば、こいつみたいになれる」

その目は、つい先ほどまで周囲を警戒していた少年とは思えないほど純粋な瞳だった

「そんなの私にも分からないよ」
「まずは、その本を読んでみたら?」

少年は黙って小説を受け取った

最初は腑に落ちない様子だった

けれど1ページ、また1ページと読み進めるうちに、その目つきが変わっていった

荒れた土地に畑を作り、仕事のない者へ働く場所を与え、住む家を失った者のために新しい町を築く王子

少年は昼を過ぎても本を離さず、何度もページを戻しながら最後まで読み切った

そして小説を閉じると、表紙に描かれた王子をじっと見つめた

「俺が、こんなふうになったら」

「うん?」

「ご褒美をくれるか?」

美月は首をかしげた

「いいけど、何が欲しいの?」

少年はすぐには答えなかった

小説を持つ指に力を込め、ためらいながら口を開く

「俺は……家族が欲しい」

その言葉に、美月は瞬きをした

「俺がこいつみたいになったら、俺も家族に入れてくれ」

「どういうこと?」

「お前と結婚すれば、俺も家族になれるんだろ?」

少年は小説を開き、王子が結婚して家族を得る場面の挿絵を指さした

「この本に、書いてあった」

あまりにも真剣な顔をしているので、美月は困ったように母を見る

母は口元を押さえながら、楽しそうに二人を見守っていた

変な子

でも、なんだか可哀想

どうせ、この小説の王子様みたいになれるはずもない

子どもの美月は、その程度にしか考えていなかった

「分かった」

美月は表紙に描かれた王子を指さした

「あなたが本当に、このお金持ちの王子様みたいに立派な人になれたらね」

少年が小指を差し出す

「約束だぞ」

「はいはい、約束ね~」

美月も小指を絡めた

少年はつながった指を、確かめるようにじっと見つめていた

やがて母が施設へ連絡するために台所へ移動すると、少年は小説を抱えて立ち上がった

「どこに行くの?」

「帰る」

「まだ怪我してるじゃない」

「もう平気だ」

少年は玄関で一度だけ振り返った

美月を見るその目は、昨日までとは違って見えた

「君の名前を教えて」

「美月だけど」

「美月……この本、借りてもいいか?」
「必ず返しに来る」

「返さなくていいよ、その本はあげるから」
「ただし、不良はやめること~」
「分かった?」

怜司は少しだけ目を細めた

そして、部屋を出ていった

それが、怜司と会った最後の日だった

軽い音が鳴り、美月は我に返った

エレベーターが止まっている

扉の上に表示されていたのは、この建物の最上階だった

「え?」

扉が左右へ開く

その先にあったのは、共用の廊下ではなかった

広々とした玄関ホールと、その向こうへ続くリビング

壁一面の大きな窓には、東京の夜景が広がっている

遠くには東京タワーとスカイツリーまで並んで見えた

怜司は当然のようにエレベーターを降りていく

美月もつられるようにエレベーターを降りた

「ちょっと待って」

玄関ホールへ足を踏み入れたところで、美月は立ち止まった

「ここ、どこ?」

怜司が振り返る

「俺の家だ」

「家!?」
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