不動産王子に求婚されたのでオタクにしてやりました

第3話 外側だけの王子様

美月は目を白黒させ、エレベーターの表示階を見上げた

最上階のランプが灯っている

なにこれ、どういうこと!?

私、異世界か何かに飛ばされてる!?

「さあ、こちらへおいで」
「ここが一番落ち着いて話せる」

美月は閉まりかけたエレベーターの扉と、怜司の顔を交互に見た

ここで帰るべきだ

絶対に帰るべきだ

そう思っているあいだに、扉は美月の背後で静かに閉じた

美月は慌ててエレベーターの下ボタンを押す

しかし、反応しなかった

「ここに来るのも、下へ降りるのも専用の鍵が必要なんだ」

怜司の指には、細長いキーが握られている

「あの! 私、やっぱり帰ります!」

「どうして? 久しぶりに会えたのに」
「大丈夫、君が嫌がるようなことはしない」
「俺は君に好かれていたいんだ」

怜司はそう言って、キーをリビングのテーブルへ置いた

「帰りたくなったら、いつでも使っていい」
「ただ、少しだけ話をさせてほしい」

それから少しして

美月は高級そうなソファの端に、ちょこんと縮こまって座っていた

これは……なに……

なんで私はここにいるの……

自分の身なりへ目を落とす

仕事帰りのブラウスに、少しくたびれたスカート

この部屋に座っているだけで、四方八方から場違いだと責められているような気分になった

ああ、なんでついてきちゃったのよ、私!

昔助けた少年だと分かって、つい警戒を解いてしまった

しかし、よく考えれば、十五年ぶりに再会した男の自宅へそのまま来るのは、かなり危険ではないだろうか

しかも、その男は再会して数分で結婚を迫ってきた

美月はちらりと怜司へ目を向けた

自分の部屋より広そうなオープンキッチンで、怜司が何かを用意している

美月の目の前のテーブルには、古びた小説が置かれていた

「この小説、ずっと持ってたの?」

「もちろん」
「この主人公のようになると、美月と約束したからな」

「何度も読んでくれたんだね」
「私もさ、何度も読み返してるんだよ」

美月は嬉しそうに表紙へ触れた

「ねえねえ、どの場面が好きなの?」

「第十二章、税制を改革する場面だ」

「え、そこなの?」

「民衆の支持を集め、商人を悪者に仕立てることで、合法的に利益を確保した」
「非常に合理的な手法だ」

「そ、そうなんだ……」

美月の笑顔が少しだけ引きつった

「じゃあさ、好きな登場人物は?」

「レイジ王子だ」

「どこが好きなの?」

「感情を露にしたりせず、常に冷静だ」
「彼は最初から完成された人格を備えている」
「そして、投資判断が正確で、手法が巧みだ」
「それを周囲に認めさせ、合理的に善悪を定め、自らの陣営へ利益を集めている」

「あなた……本当にこの小説を読んだの?」

「当然だろう」
「すべての文章を暗記している」

やがて怜司は、湯気の立つ二つのカップを持って戻ってきた

美月の前へ置かれたのは、蜂蜜の入った温かいミルクだった

「これ……」

「十五年前、君の母親が作ってくれた」

怜司は美月の向かいへ腰を下ろした

「熱を出した俺に、卵粥まで作ってくれた」
「君は何度も、俺の額のタオルを冷たいものに取り替えてくれた」

美月はカップを両手で包んだ

ほんのりと甘い香りがする

「お母さんのこと、覚えてるんだ」

怜司は迷いなく答えた

「忘れたことはない」
「お母さんは、亡くなってしまったのだろう?」

美月の指が、カップの持ち手の上で止まった

少し目を伏せて答える

「うん……2年前にね」

美月は話題を切り替えるように言った

「怜司君はすごくなったね」
「こんなところに住んでるなんて」

怜司は不意に美月へ頭を下げた

「すまなかった……」
「俺がもっと早く、君を迎えに行くべきだった」
「お母さんだって、守れたかもしれない」

美月は困惑した表情で怜司を見る

「……え?」

「でも、安心してほしい」
「美月は俺が守る」
「もう何不自由させない」
「あんなところに住まなくていい」
「ここで一緒に暮らそう」

「あんな……ところ?」

美月の肩がこわばり、カップを持つ手に力が入った

怜司は当然のように答えた

「君が提示した条件は、すべて満たした」
「俺としては、すぐにでも結婚したい」

「そんなの……子どもの頃の約束でしょう……」

「君の母親も止めなかった」
「あれは後見人の同意だ、約束は成立している」
「子どもの頃に交わしたことは、履行義務とは関係ない」

「あるわよ!」

怜司は不思議そうに美月を見る

そんな怜司を、美月は睨みつけた

「私は、あの小説の王子様みたいになったらって言ったのよ」

「だから、なった」

「どこがよ!?」

怜司は少し考えたあと、指を一本立てた

「資産を築いた」

二本目を立てる

「住む場所のない者へ住宅を提供した」

三本目を立てた

「荒れた土地を買い、町を再生した」
「俺は、作中で王子が成し遂げた事業をすべて現代で再現した」

「事業って……」

「あれは再生事業を題材にした小説だろう?」
「結婚の条件は満たされたはずだ」

「違うわよ!」

美月は思わず立ち上がった

「あなた、さっき私のアパートを『あんなところ』って言ったじゃない!」
「あそこはママと過ごした大切な場所なの」
「古くても、汚くても、もう壊されちゃうとしても、私にとっては特別なのよ!」

「感情的な問題があるのだね」
「気持ちは理解した」
「では、双方の意見を踏まえて対応策を考えよう」
「あの部屋の建具や家具を移し、なんなら部屋ごとここに再現する」
「それなら、美月の希望に添えるだろう」

美月は怜司を睨みつけ、歯を食いしばった

そして、テーブルに置かれていた小説をひったくるように手に取る

「この小説の主人公と、似ても似つかないわ!」

表紙に描かれた王子を、怜司へ突きつけた

「あなたには心がないもの!」
「あんたみたいな、見た目だけの成金男なんて大嫌いよ!」

怜司はそっと突き出された小説を両手で受け取る

そして黙って考え込んだ

「分からないな」
「問題はないはずだ」
「突然のことで混乱するのは分かる」
「ただ、俺は美月を誰よりも大切にする自信がある」
「美月にとって、俺ほど条件のいい相手はいないはずだ」
「互いに利益がある」
「まとまる話のはずだ」
「少し時間を置こう」
「来週また同じ曜日に会い、互いの条件を整理し――」

言葉を遮るように、美月が声を重ねた

「あなた……立派にはなったかもしれないけど」
「この小説のこと、なんにも分かってないじゃない」

「そんなはずはない」
「何度も言うが、全文を暗記している」

「そういう意味じゃない!」

「では、なにが不足している?」

「心よ、心!」

怜司はしばらく考え込んだ

やがて、真剣な顔で美月を見つめる

「どうすれば理解できる?」
「どうすれば、美月は俺と結婚してくれるんだ」

美月は答えなかった

子どもの頃と同じ眼だった

分からないことを理解しようとするとき、怜司は驚くほど素直な目をする

けれど、今の美月にはその目に応える気はなかった

美月はテーブルの上に置かれたキーを手に取り、つかつかとエレベーターへ向かった

操作パネルへキーをかざすと、すぐに扉が開く

「私は、あなたとは結婚しません!」

エレベーターへ乗り込んだ美月は、戸惑ったように立ち尽くす怜司を指さした

「だって今のあなた、全然かっこよくないもん!」

「俺が……かっこ悪い?」

初めて聞く言葉だったかのように、怜司が目を見開く

美月は怜司へキーを放った

怜司が片手で受け止める

「外側だけ王子様になっても駄目なのよ!」

美月はあっかんべーをした

そのまま扉が閉まり、美月の姿が見えなくなる

怜司は手の中にある古びた小説へ目を落とした

資産も築いた

町も再生した

住む場所のない者へ、家も与えた

自分は、この王子と同じことをしてきたはずだった

怜司は表紙に描かれた王子を見つめたまま、静かにつぶやく

「こいつと俺……何が違うんだ……」

その問いに答える者は、もう部屋にはいなかった

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