君は黒猫
「………」

彼は「何だこの人」というような目を綾香に向ける。

目は口ほどに物を言う、とはこういうことか。



「なあに、その目」

「…あんた、頭おかしいんじゃない」

「失礼な。私はただ君の名前を聞いただけだよ?」

「それがおかしいって言ってんの」

「そう?普通じゃない?仲良くなりたい相手に名前を聞くのは当然のことでしょ?」

「……は?」

その言葉を聞いて、彼の無表情が初めて崩れた。

少しだけ目を見開き、それからふいっとそっぽを向く。


「…なにそれ。初対面の男に言うことじゃないでしょ」

綾香はそれを見て、意地の悪い笑みを浮かべて少し身を乗り出す。

「あれ、もしかして照れてる?」

「照れてない。近い。離れて。というか早く帰って」

「えー…もっと話したいんだけど」

「読書の邪魔。さっさと帰って」

しっしっ、とまるで野良犬でも追い払うように手を振る。

その視線はもう本に戻っていたし、なんなら綾香の話をもう聞く気もないらしい。

綾香は渋々窓枠から手を離して立ち上がる。

「じゃあ、名前だけ教えてよ。そしたら帰るからさ」 

つまり、教えてくれなきゃ帰らないと言っているようなものだった。


彼はやっぱり面倒くさそうに眉根を寄せる。

よほど早く帰ってほしいらしい。深くため息をついて口を開いた。

「…黒木。黒木薫」


綾香は目を細めて口角を上げる。

その表情は単純に喜んでいるようにも、いたずらを思いついた子供のような笑みにも見えた。

「ふふ。教えてくれてありがとう、黒木くん。じゃあ、またね〜」

ひらひらと手を振って、歩き出す。

その背中は来た時よりも楽しそうだった。
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