黒衣の法官は春花に恋う
プロローグ
「父は騙されているんです!」
帝国刑務省長官の執務室へ飛び込むなり、リナリアはそう訴え、広い机の前まで一息に駆け寄った。
ここに辿り着くまで何度止められたか分からない。正式な面会の許可を得ていない者を長官に会わせることはできないと諭され、せめて申し立ての書面だけでも提出するよう勧められたものの、昨夜父を連れていった官たちの胸元にあったものと同じ刑務省の紋章を目の前にして、素直に踵を返すことなどできなかった。
軍に納められるはずだった薬と保存食を横流しし、不正な取引に伯爵家の名を貸した疑いがある。その対価として、商会から金を受け取った形跡まで見つかった――昨夜、官から読み上げられた罪状は、どれ一つとしてリナリアの知る父とは結びつかないものばかりだった。
「父は困っている商人から頼まれて、書類に署名をしただけなんです。人を助けるための事業だと聞かされていたのであって、軍の物資を盗むつもりなどありません。商会から不正なお金を受け取ったことも――」
「それで?」
頁を捲る乾いた音に重なるように返された声は、想像していたものよりも遥かに若い。
机の向こうに座る人物は、リナリアが部屋に入ってから一度も顔を上げていなかった。
頭から肩までを覆う黒いローブに、目深く被られたフード。その影から亜麻色の髪が数房だけ覗き、鼻から下には同じ黒色の布が巻かれているせいで、長い睫毛に縁取られた翠色の瞳以外、その顔立ちを窺うことはできない。
刑務省長官と聞き、父よりも年上の厳めしい男を想像していた。けれど、書物を支えている細い指や先ほど耳に届いた声から、長い年月を重ねた人間特有の重さは感じられない。
執務机の端に置かれた銀色の札には、セティ・エフゲニーという名が刻まれている。
目の前にいるこの黒衣の人物が、帝国の法を預かる刑務省長官本人であることだけは、どうやら間違いないらしい。
「父を解放してください」
「嫌だよ」
呆気ないほど簡単に返された言葉に、リナリアは思わず目を瞠った。
それでもセティは何事もなかったかのように次の頁に指を掛け、こちらの驚きなど視界にも入っていないような顔をしている。
「まだ、きちんとお話ししていません」
「聞いたでしょう」
ようやく会えたというのに、こちらを見ることさえなく、若い長官は淡々と言葉を重ねた。
「君のお父上は、取引の内容を確かめずに署名し、伯爵家の印章を使わせた。その結果、軍に届くはずだった物資が消えて、不正な金が動いた」
「ですが、父は騙されていたんです」
「騙される方が悪いんだよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
聞き間違いではないかと思い、目の前の男を凝視してみても、意地の悪い冗談を口にした様子など少しもない。彼は静かな顔で同じ頁を追っている。
帝国刑務省長官の執務室へ飛び込むなり、リナリアはそう訴え、広い机の前まで一息に駆け寄った。
ここに辿り着くまで何度止められたか分からない。正式な面会の許可を得ていない者を長官に会わせることはできないと諭され、せめて申し立ての書面だけでも提出するよう勧められたものの、昨夜父を連れていった官たちの胸元にあったものと同じ刑務省の紋章を目の前にして、素直に踵を返すことなどできなかった。
軍に納められるはずだった薬と保存食を横流しし、不正な取引に伯爵家の名を貸した疑いがある。その対価として、商会から金を受け取った形跡まで見つかった――昨夜、官から読み上げられた罪状は、どれ一つとしてリナリアの知る父とは結びつかないものばかりだった。
「父は困っている商人から頼まれて、書類に署名をしただけなんです。人を助けるための事業だと聞かされていたのであって、軍の物資を盗むつもりなどありません。商会から不正なお金を受け取ったことも――」
「それで?」
頁を捲る乾いた音に重なるように返された声は、想像していたものよりも遥かに若い。
机の向こうに座る人物は、リナリアが部屋に入ってから一度も顔を上げていなかった。
頭から肩までを覆う黒いローブに、目深く被られたフード。その影から亜麻色の髪が数房だけ覗き、鼻から下には同じ黒色の布が巻かれているせいで、長い睫毛に縁取られた翠色の瞳以外、その顔立ちを窺うことはできない。
刑務省長官と聞き、父よりも年上の厳めしい男を想像していた。けれど、書物を支えている細い指や先ほど耳に届いた声から、長い年月を重ねた人間特有の重さは感じられない。
執務机の端に置かれた銀色の札には、セティ・エフゲニーという名が刻まれている。
目の前にいるこの黒衣の人物が、帝国の法を預かる刑務省長官本人であることだけは、どうやら間違いないらしい。
「父を解放してください」
「嫌だよ」
呆気ないほど簡単に返された言葉に、リナリアは思わず目を瞠った。
それでもセティは何事もなかったかのように次の頁に指を掛け、こちらの驚きなど視界にも入っていないような顔をしている。
「まだ、きちんとお話ししていません」
「聞いたでしょう」
ようやく会えたというのに、こちらを見ることさえなく、若い長官は淡々と言葉を重ねた。
「君のお父上は、取引の内容を確かめずに署名し、伯爵家の印章を使わせた。その結果、軍に届くはずだった物資が消えて、不正な金が動いた」
「ですが、父は騙されていたんです」
「騙される方が悪いんだよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
聞き間違いではないかと思い、目の前の男を凝視してみても、意地の悪い冗談を口にした様子など少しもない。彼は静かな顔で同じ頁を追っている。