黒衣の法官は春花に恋う
「父を馬鹿にしないでください!」
堪えきれず声を張り上げると、それまで本に落とされていた翠色の瞳が、初めてリナリアへ向けられた。
「あのさあ、馬鹿なの?」
「なっ……!」
「伯爵家の当主が、自分の署名と印章にどれだけの責任が伴うかも知らないの? 頼まれたから貸しました、騙されたから知りませんでしたで済むなら、法なんて要らないでしょう」
セティは読んでいた本へ栞を挟み、机の端に置いた。
冷たく澄んだ瞳が細められる。それは感情のままに訴えるばかりで、自分の言葉に何一つ根拠を添えられずにいるリナリアの内側まで見透かしてくるようで、思わず息が詰まる。
「お父上はその書類を読んだわけ?」
「困っている方を助けるための事業だと、そう説明されていたそうです」
「何をどう助ける事業?」
「それは……」
リナリアは言葉を失った。父が連行される前に話せたことなど、ほとんどなかった。
何も知らない、頼まれて名を貸しただけなのだと、青ざめた顔で繰り返す父を追いかけようとしたリナリアに、彼は家のことを頼むと言い残してそのまま連れていかれてしまったのだ。
「誰に署名を頼まれたの?」
「商人です」
「名前は?」
「……まだ、分かりません」
「どこの商会に属している者?」
「それも……」
「取引の内容も、相手の名前も、所属する商会も知らない。それで僕に何を信じろと言うの?」
静かに落とされた言葉が、鋭い針のように胸に刺さる。
何一つ説明できないことが悔しくて、リナリアは膝の上で両手を固く握り締める。それでも、父が人を欺き、国の物資を盗むような真似をしたとは、どうしても思えなかった。
「父は確かに、人を信じすぎるところがあります。困っている方を見ると放っておけなくて、何度騙されても懲りなくて……そのせいで伯爵家が傾いていることも、分かっています」
「自分で言うんだ」
「ですが、父に助けられた方も大勢います。領民が病に罹れば私財で医師を呼び、凶作の年には、自分たちの食事を減らしてまで穀物庫を開きました。お人よしではありますが、人を騙して利益を得るような方ではありません」
「善人なら、罪を犯さないの?」
リナリアの声ばかりが響いていた執務室に、落ち着き払った問いが落ちる。
「領民に慕われている人間は嘘をつかない? 家族に優しい父親なら、何をしても疑わなくていい?」
「そういうことではありません。私は、父を知っているから信じているんです」
「僕は知らないから、信じない」
冷たい言葉ではあったものの、父への憎しみは感じられない。最初から罪人と決めつけ、リナリアの訴えを嘲笑っているわけでもない。ただ彼の中には、目の前で零される涙にも、家族から語られる美しい思い出にも揺らがない、別の判断基準があるのだろう。
堪えきれず声を張り上げると、それまで本に落とされていた翠色の瞳が、初めてリナリアへ向けられた。
「あのさあ、馬鹿なの?」
「なっ……!」
「伯爵家の当主が、自分の署名と印章にどれだけの責任が伴うかも知らないの? 頼まれたから貸しました、騙されたから知りませんでしたで済むなら、法なんて要らないでしょう」
セティは読んでいた本へ栞を挟み、机の端に置いた。
冷たく澄んだ瞳が細められる。それは感情のままに訴えるばかりで、自分の言葉に何一つ根拠を添えられずにいるリナリアの内側まで見透かしてくるようで、思わず息が詰まる。
「お父上はその書類を読んだわけ?」
「困っている方を助けるための事業だと、そう説明されていたそうです」
「何をどう助ける事業?」
「それは……」
リナリアは言葉を失った。父が連行される前に話せたことなど、ほとんどなかった。
何も知らない、頼まれて名を貸しただけなのだと、青ざめた顔で繰り返す父を追いかけようとしたリナリアに、彼は家のことを頼むと言い残してそのまま連れていかれてしまったのだ。
「誰に署名を頼まれたの?」
「商人です」
「名前は?」
「……まだ、分かりません」
「どこの商会に属している者?」
「それも……」
「取引の内容も、相手の名前も、所属する商会も知らない。それで僕に何を信じろと言うの?」
静かに落とされた言葉が、鋭い針のように胸に刺さる。
何一つ説明できないことが悔しくて、リナリアは膝の上で両手を固く握り締める。それでも、父が人を欺き、国の物資を盗むような真似をしたとは、どうしても思えなかった。
「父は確かに、人を信じすぎるところがあります。困っている方を見ると放っておけなくて、何度騙されても懲りなくて……そのせいで伯爵家が傾いていることも、分かっています」
「自分で言うんだ」
「ですが、父に助けられた方も大勢います。領民が病に罹れば私財で医師を呼び、凶作の年には、自分たちの食事を減らしてまで穀物庫を開きました。お人よしではありますが、人を騙して利益を得るような方ではありません」
「善人なら、罪を犯さないの?」
リナリアの声ばかりが響いていた執務室に、落ち着き払った問いが落ちる。
「領民に慕われている人間は嘘をつかない? 家族に優しい父親なら、何をしても疑わなくていい?」
「そういうことではありません。私は、父を知っているから信じているんです」
「僕は知らないから、信じない」
冷たい言葉ではあったものの、父への憎しみは感じられない。最初から罪人と決めつけ、リナリアの訴えを嘲笑っているわけでもない。ただ彼の中には、目の前で零される涙にも、家族から語られる美しい思い出にも揺らがない、別の判断基準があるのだろう。